CDを買い始めた頃の記憶。 | …

i am so disapointed.

1982年8月17日に、世界で初めてCDが製造されたらしい。ドイツのフォノグラムの工場においてであり、タイトルはスウェーデンのポップ・グループ、ABBAの「ザ・ビジターズ」であった。グループにとって最後のアルバムであり、アメリカやイギリスでは一時期に比べると人気が落ち着いてきていたが、当時の西ドイツを含め、ヨーロッパでは1位になる国もいくつかあった。

 
しかし、製造されてすぐに発売されたわけではない。世界で初めてCDが発売されたのは実は日本で、1982年10月1日のことであった。その日はCBSソニーとEPICソニーが合わせて約50タイトル、日本コロムビアが10タイトルを発売してる。この中で最初に製造されたのがビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」であることから、これが世界初のCDとされる場合もあるようである。同じ日に初めてのCDプレイヤーも発売されているが、その販売価格は16万8千円だったという。
 
この日、「ニューヨーク52番街」の他に発売されたCDにはクラシック音楽も多かったが、ポピュラーでは同じくビリー・ジョエルの「ストレンジャー」や、ボズ・スキャッグス、TOTO、ジャーニー、REOスピードワゴン、ピンク・フロイド、サイモン&ガーファンクル、マイケル・ジャクソン、アース・ウインド&ファイアー、ウェザー・リポート、マイルス・デイヴィス、フリオ・イグレシアス、ノーランズなどの作品、日本人アーティストによるものではこの前年にリリースされ大ヒットした大滝詠一「A LONG VACATION」、この年にリリースされた大滝詠一・佐野元春・杉真理「ナイアガラ・トライアングルVol.2」の他に、山口百恵、キャンディーズ、シャネルズ、五輪真弓、渡辺貞夫などが発売されている。また、オムニバスの「ニューミュージック・ベスト・ヒット」というのも発売されているのだが、これには渡辺真知子、シャネルズ、五輪真弓らによるヒット曲が収録されている。
 
この頃、私は高校生で、FM雑誌なども購読していたので、CDのことはなんとなく知っていたのではないかと思う。私はオーディオ設備にお金をかけるぐらいならレコードをたくさん買いたいタイプの音楽ファンだったのだが、当時はオーディオブームでもあり、かなり高価な機器を買い揃えている友人もいた。私のようにパイオニアのプライベートとか、あとはソニーのリバティーといったシステムコンポで聴いている者は、マニアックなオーディオファンからはバカにされる傾向にあり、アンプとかプレイヤーとか、それぞれを別のメーカーのもので組み合わせる方がエラいというような風潮があった。そのようなタイプの友人の家に行ってみると、確かにステレオは立派なのだが、持っているレコードがシャカタクと中森明菜だけでずっこけた、ということもあった。
 
そのようなオーディオファンであっても、少なくとも私の周りでは当時、CDプレイヤーを持っている者はいなかったし、CDの話題をすることもなかったように記憶している。
 
1985年の春、私は東京で一人暮らしを始めるのだが、状況的にけして贅沢はできない事情もあり、風呂も電話もなく、日当たりが悪い、おまけに壁が薄いためにステレオの持ち込みも夜間に友人を入れることも禁止された安アパートに住むことになった。大学に合格するまでの辛抱なので、とにかく勉強を頑張ろうと思った。ステレオはダメだがラジカセは許可されていたため、音楽は主にそれで聴いた。とはいえレコードはどうせ買いたくなるので、レコードプレイヤーは持ってきていて、それをラジカセに接続して小さな音で楽しんでいた。やがて生まれて初めてのウォークマンを買い、レコードではなくカセットテープで音楽を買うことも増えていった。渋谷駅前の露店では全米アルバム・チャートにランクインしているような新作の輸入カセットテープが千円で売られていた記憶がある。
 
この年は六本木ウェイヴや池袋のオンステージヤマノにディスクポート、新宿の帝都無線、秋葉原の石丸電気などでレコードを買った記憶があり、おそらくCDも売られていたはずなのだが、その記憶がほとんどない。そもそもプレイヤーを持っていなかったし買う予定もなかったので、目に入らなかっただけだろうか。予備校で知り合った友人の一人が恵比寿に住んでいて、よく遊びに行っていたのだが、そこで初めてCDプレイヤーを見た。佐野元春の「Heart Beat」などのCDがあったように記憶している。
 
大学受験に合格し、翌年の春からステレオが置けて、風呂も電話もあるワンルームマンションで生活することになった。但し都内ではなく、小田急相模原駅から徒歩15分ぐらいの場所であった。新生活が始まった矢先にショッキングな出来事もあったが、音楽生活は続いていて、遂にCDプレイヤーを買おうということになった。それはごく自然な流れだったので、おそらく世の中がそのようなムードだったのだろう。実際にCDの売り上げが枚数ベースでLPレコードを追い抜いたのは、この年だったようである。高校生の頃に使っていたシステムコンポを実家から送ってもらい、CDプレイヤーだけを本厚木の丸井で買った。価格は4万円台後半だったような記憶がある。初めて買ったCDソフトはザ・スタイル・カウンシル「アワ・フェイヴァリット・ショップ」の国内盤で、町田の小さなレコード店だったはずである。このアルバムは前の年にリリースされて、池袋のオンステージヤマノでLPレコードを買っていたのだが、CDでも欲しくなって買ったのだった。当時、CDはアナログ盤よりもずっと音が良くて、劣化もしないというような宣伝がされていたようがする。もちろんそれを鵜呑みにしていたので、当時、大好きだったザ・スタイル・カウンシルの音楽を良い音で聴きたいと思ったのだ。一方で、CDの音は高音がキンキンしていて全然良くない、アナログレコードの方が良いという意見もあった。
 
土曜日、大学の授業が午前中で終ったので、神奈川中央バスを本厚木の有隣堂書店の前で降りると、本厚木ミロードのの中のレコード店に寄った。少し戻るとすみやがあったのだが、当時はまだ存在を知らなかったかもしれない。RCサクセションの「ハートのエース」」は前の年の冬に発売された時、カセットテープで買っていたが、やはりこれもCDで買い直した。このアルバムのCDとカセットテープとでは収録曲は同じだったが、なぜか曲順が異なっていた。また、LPレコードはCDと同じ曲順だったが、前年の春にシングルでリリースされた「すべてはALRIGHT (YA BABY)」が収録されていなかった。もう1枚、はっぴいえんどのCDを買った。大瀧詠一、細野晴臣、松本隆などが所属していた伝説のロック・バンドであり、前の年にはライブ・イベントのために一時的に再結成したことが話題になっていた。そのイベントの模様はラジオで放送されていて、聴いたはずなのだが、はっぴいえんどのことは覚えていないので、おそらく聴かなかったのではないかと思う。それよりも、桑田佳祐と佐野元春が共演したことの方が私にとっては大きな事件であった。
 
その時に私が買ったはっぴいえんどのCDは、「はっぴいえんど」「風街ろまん」という2枚のアルバムがCD1枚に収録されて、3千5百円というものであった。どこか懐かしさも感じるサウンドだが、とにかく歌詞が洒落ていてメロディーも良い、異なったタイプのボーカリストが数名いることによってバラエティー感もある。さすがに名盤といわれるだけのことはある、と思ったが、当時、これがシティ・ポップだという感覚はなかったと思う。というか、これはおそらく個人差があるのだろうが、私が認識していたシティ・ポップというのはもっとAORとかフュージョンっぽい音楽で、打ち込みやシンセサウンドが主流になりつつあったこの頃には、すでに廃れていたような印象がある。サウンド的にはフォークに近くもあるが、精神性がロックであるという点において、すでに高校時代に聴いていた1970年代のRCサクセションと同ジャンルのものとして認知した。
 
夏に行われた渋谷公会堂での松本伊代のコンサートの帰りに、まだ宇田川町にあった頃のタワーレコードでザ・スミス「クイーン・イズ・デッド」とスティーヴ・ウィンウッド「バック・イン・ザ・ハイ・ライフ」を買ったのだが、それはアナログのLPレコードであった。夏休みに帰省した時にも何枚かレコードを買うが、札幌で泊めてもらった友人の家にも旭川の実家にもCDプレイヤーはまだなかったので、アナログレコードを買っていた。イトーヨーカドー相模原店の斜め向かいあたりにレコードレンタル友&愛があったのだが、まだアナログレコードがほとんどで、小さな棚1つ分だけCDレンタルコーナーがあった。実家から戻った日に小田急相模原駅の近くにあったアイブックスという書店に寄ると、「ロッキング・オンJAPAN」の創刊号が売っていて、表紙で佐野元春がムースのようなものに塗れていた。その年、佐野元春は春から「STRANGE DAYS-奇妙な日々-」「SEASON IN THE SUN-夏草の誘い-」「WILD HEARTS-冒険者たち-」と、シングルを続けざまにリリースしていた。当時、CDがリリースされるのはアルバムだけで、シングルは相変わらずアナログのみで発売されていたので、これらもすべて7インチ・シングルで買っていた。12月にこれらを収録したアルバム「カフェ・ボヘミア」がリリースされたので、それでやっとCDとして手に入れることができた。
 
翌年、忌野清志郎がソロ・アルバム「レザー・シャープ」をリリースし、近所にあったオウム堂(後に、おーむ堂に改名する)というレコード店でCDを買ったのだが、何ヶ所かで音飛びがするのであった。これまでも別のCDで何度かあったのだが、今回はとても楽しみにしていたニュー・アルバムだっただけに、ひじょうに悩ましい問題であった。音飛びの原因は主にCDプレイヤーのレンズの汚れだといわれていて、レンズクリーナーのようなものも売られていた。それを買って試してみたり、CDの盤面を傷つけないように拭いてみたりしたのだが、改善するどころむしろ飛ぶ箇所が増えたように感じられたり、ある箇所が飛ばなくなったらまた別の箇所が飛ぶようになったりと、とてもではないが音楽を純粋に楽しめるような状態ではなくなっていた。CDを持っていったのだが、お店のプレイヤーでは問題なく再生できるので交換も返金もできないという。それでもそのCDは聴きたかったので、仕方なくまったく同じものをもう1枚買った。こちらは問題なく再生できた。
 
その後もたまに音が飛ぶCDがあり、鬱陶しく思っていたのだが、ある日、深夜にたまたまつけていたラジオでとんねるずの石橋貴明が「俺のCDが最近、飛ぶんだよなぁー」というようなことを言っていて、なんだ自分だけではないのだと少し気が楽になった。このアルバムで忌野清志郎のバックバンドを務めていたのはレザー・シャープスといって、イギリスのパブ・ロック・バンド、イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズのメンバーであった。このバンドでライブも行い、私は渋谷公会堂と中野サンプラザに観に行ったのであった。その時、アルバムには収録されていない「E-JAN」という曲をやっていて、わりと気に入っていた。その後にリリースされたライブ・アルバム「HAPPY HEADS」には収録されたものの、やはりスタジオ録音盤が欲しい。などと思っていたところ、シングル盤がリリースされたのだが、やはりアナログ盤のみでの発売だったので、旭川に帰省していた時に7インチ・シングルを買った。
 
しかしその翌年、1988年に佐野元春がシングルのみでリリースした「警告どおり 計画どおり」になると、私はCDシングルを買っているのである。あの小さなサイズで、ジャケットが縦長だったやつである。プラスチックの下半分を折って捨て、紙の部分を折り曲げて、正方形にして保管することが当初は推奨されていて、私もそうしていたような記憶がある。また、CDプレイヤーのトレーに載せる時には、別に購入したアダプター的なものに載せてから入れていた。少しすると、CDプレイヤーのトレーはアダプター的なものを使わなくてもCDシングルがかけられるように改良されていた。この小さなCDシングルが発売されたのは、1988年2月21日だという。菊池桃子、杉山清貴、桑田佳祐、荻野目洋子などに混じって、ニュー・オーダーやパブリック・イメージ・リミテッドのシングルCDもリリースされたようである。この小さなCDシングルは、海外でもリリースされていて、私はソウル・Ⅱ・ソウルの輸入盤を持っていた。ジャケットは日本のように短冊形ではなく、小さなCDがピッタリ入るぐらいの正方形のものであった。
 
アナログレコードとCDとの大きな違いの1つとして、曲順を好きなようにプログラムしたりシャッフルしたりができるという点がある。アナログレコードでも針を好きな曲のところまで動かせばそれは可能なのだが、CDの場合はリモコンのボタン1つでそれができるのが良かった。しかし、1988年にリリースされたプリンスのアルバム「LOVESEXY」はアルバム全体が1トラックとして収録されていたため、これができなかったのである。たとえばシングルでもリリースされた「アルファベット・ストリート」だけをカセットテープに録音したいと思った場合、1曲目から早送りをしてそこにたどり着く以外に方法がなかった。このCDはお金がない時に一度、売却してしまったのだが、後日にやはり必要だと思い、中古CDショップで買い直したのだった。それは1曲ずつがそれぞれ1トラック毎に振り分けられていて、スキップもシャッフルもちゃんとできた。
 
その後、CDプレイヤーを買い換えたりもして、CDの音が飛ぶ問題に悩まされる頻度は圧倒的に減っていったのだが、やはり時々、忘れた頃に起こるのであった。なにで見たのか忘れたが、CDを冷蔵庫の冷凍室で冷やすと音飛びしなくなるというよく分からない記事を見て、まったく信憑性は感じなかったのだが、ためしにやってみたところ本当に直ったということもあった。どういう原理になのかはまったく分からないし、偶然なのかもしれないが、確かにそういうことが何度かあった。