旭川空港を発った東亜国内航空のYS-11機は、羽田空港に着陸した。1980年8月8日、金曜日であった。この日付を記憶していたわけではないのだが、後に調べてはっきりした。この日、第62回全国高等学校野球選手権大会が開幕し、西東京代表で初出場の東京都立国立高等学校は第3試合で和歌山県立箕島高等学校に敗退している。
その前夜、21時からはTBSテレビ系列で「ザ・ベストテン」が放送され、北海道ではHBCテレビで観ることができた。もんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」が3週目の1位に輝き、テレビドラマ「3年B組金八先生」に出演していたことから人気が出た田原俊彦のデビュー曲「哀愁でいと」は2位にランクインしていた。5位にはデビュー曲「ランナウェイ」を大ヒットさせたドゥー・ワップ・グループ、シャネルズの2枚目のシングル「トゥナイト」がランクインしていたが、メンバーが起こした不祥事により謹慎期間に入っていたため、出演はなかった。
ラジオのニッポン放送で平日の21時から放送されていた「大入りダイヤルまだ宵の口」のオープニングテーマ曲に、「トゥナイト」は使われてもいた。「土曜の夜は お前を抱いて」という歌いだしの歌詞は「〇曜の夜は くり万と一緒に」という風に変えられていたと記憶しているのだが、「くり万」とはこの番組のメインパーソナリティーであった、くり万太郎のことである。しかし、不祥事にともない、これも田原俊彦「青春ひとりじめ」に差し替えられた。この曲は田原俊彦の2枚目のシングル「ハッとしてGood!」のB面に収録されることになった。
また、松田聖子が「ザ・ベストテン」に初ランクインするのは、この翌週の8月14日のことであった。この年にデビューした女性アイドル歌手では、岩崎良美が「涼風」ですでにランクインしていた。
羽田空港からはおそらくモノレールで、浜松町まで行ったのだろう。私が東京に来たのはその時が初めてであり、父に連れて来てもらったのであった。この日、東京に着いたらすぐに行きたい場所があり、それは赤坂見附のラジオたんぱであった。「ヤロメロジュニア出発進行!」という番組の公開生放送をやっていて、金曜日はパーソナリティーの中でも特に人気が高い小森まなみが担当していた。
浜松町からおそらくタクシーで行ったのだろう。アメリカ大使館の近くで降ろしてもらうと、蝉がものすごい勢いで鳴いていた。北海道で暮らしていて、蝉の鳴き声をそれまでに聞いたことがなかったので、これが初めてであった。当時、アメリカ文化はとにかくカッコいいという風潮が日本全体にあったため、アメリカ大使館という響きにはひかれるものがあった。私はこの時、東京に来るにあたって新しいTシャツを買ってもらったりもしていたのだが、そのうちの1枚はアメリカの地図と「USA」という文字が意味もなくプリントされた、ものであった。
スタジオ内はアットホームな雰囲気であり、集まったリスナーの多くは常連なのではないかという雰囲気があった。小森まなみは当時、大学に通いながらラジオパーソナリティーの仕事もやっているということであった。すでに芸能人のオーラがあるが、フレンドリーであり、番組では「ミルキーロマンス」なる持ち歌も歌って、大いに盛り上がっていた。まるでアイドルである。後で調べたところによると、小森まなみは高校生の頃にバーズのメンバーに選抜され、全国高等学校サッカー選手権大会のイメージソングとして知られる「ふり向くな君は美しい」にも参加していたということである。また、その後、長きにわたってラジオパーソナリティー、声優として活躍することになり、CDもたくさんリリースするのだが、この時に歌っていた「ミルキーロマンス」という曲は、残念ながら音源化されていないようである。
「まみと一緒にまみむめも!みんな一緒に!」と言った後に、リスナーが皆で「まみむめも!」と言うのが恒例になっていた。また、公開放送でありがちな遠くから来てくれた人に挙手を求める時間もあり、明らかに私が最も遠くから来ていたのだが、緊張して手が挙げられなかったことを後悔している。
番組が終わったのが17時頃で、それからのことはよく覚えていないのだが、とにかく夕方には上野公園にいて、すでに暗くなっていたのだった。その日の東京の日没時刻は、18時39分だということである。西郷隆盛像の近くにいたが、すでにシルエットしか分からないような状況であった。西郷隆盛といえば坊主頭が少し伸びたような頭髪の印象があったのだが、そのシルエットはちょんまげを結ったようなものであり、不思議に思っていたところ、頭の上に鳥がとまっていただけだったという嘘のような本当の話もあった。とにかく宿をとろうということで、ホテルというよりは旅館という風情の所にチェックインをした。それから夕食を食べに行こうということで、外に出た。
アメ横を歩いていると、何だかよく分からないものを路上で売っているようで、人がやたらと群がっている様子があった。おそらくラーメン店のような所に入ったのだが、私は焼きそばを注文した。私は当時からソース焼きそばが大好きであり、この時もそれを期待して注文したのだ。確か700円か800円ぐらいしたと思うのだが、焼きそばにしては高いと思いつつ、これが東京の相場なのかとか、どうせ父が払ってくれるのだし、というようなことを考えていた。父は普通にラーメンを注文していたと思う。そして、テーブルに運ばれてきた焼きそばは、私がそれまでに知っていたのとはかなり違うものであった。味付けがマイルドで、独特な風味もある。具材も焼きそばにしては、かなりいろいろ入っている。思っていものとはかなり違ったのだが、結果的にとてもおしかった。以来、私はこの時に食べた焼きそばを幻の焼きそばとして、数年後に東京で一人暮らしをするようになってからも、ずっと探している。しかし、店の場所の記憶があいまいな上に、おそらくもう無くなっているのではないかと思うのである。そして、あれはおそらくオイスターソースをベースにした、上海焼きそばと呼ばれているようなものだったのではないかと、いまは思っている。
その後、旅館に戻ったのだが、父は一人でどこかに出かけてしまった。私は家から小さなラジカセを持ってきていたのだが、それでおそらくニッポン放送あたりを聴いていたのではないかと思う。当時、私は東京への憧れが強く、旭川にいても地元のHBCラジオやSTVラジオだけでなく、東京のニッポン放送、TBSラジオ、文化放送、ラジオ関東などを遠距離受信することもあった。もちろん受信状況は良くないのだが、それらをクリアな音質で聴けているだけでも感激したものである。さだまさし「防人の詩」が主題歌に使われていた映画「二百三高地」がその前週から公開されていたが、そのCMを聴いたような記憶がある。
翌日、8月9日、土曜日には日本テレビ系列で「お笑いスター誕生」が放送されていた。私は後にこの番組を毎週ビデオに録画し、何度も繰り返し観るほど好きになるのだが、この時点ではまだその存在すらしらなかった。初めて録画したのは、大木こだま・ひかり、九十九一が初登場した11月22日放送分だったのではないかと思う。よって、この頃の「お笑いスター誕生」については、後に後追いで把握することになるのだが、この週には後にものまねタレントとして大ブレイクするコロッケがアマチュアとして初出演、後にとんねるずに改名する貴明&憲武は4週目の勝ち抜きに成功、月見おぼん・こぼんは9週目を勝ち抜き、B&Bに続く番組史上2組目の10週勝ち抜きチャンピオンに王手をかけていた。
この「お笑いスター誕生」が収録されていたのは後楽園ホールで、現在の東京ドームシティに存在する。この日はどのように行動していたのかよく覚えていないのだが、とにかく後楽園球場の近くには来てみたのだ。当時の私は普通にプロ野球は観ていて、おそらくマイルドに阪神タイガースを応援していたのではなかったかと思う。西武ライオンズの田淵幸一選手をモデルにしたギャグ漫画「がんばれ!!タブチくん!!」がヒットし、劇場用アニメ映画にもなっていた。私は旭川でなぜかホラー映画の「ファンタズム」との二本立てでこの映画を観ていたし、漫画も全部買って読んでいた。田淵幸一選手は「がんばれ!!タブチくん!!」第1巻の表紙では、阪神タイガースのユニフォームを着ている。
西鉄ライオンズの時代から福岡県を本拠地としていたライオンズは1978年の時点ではクラウンライターライオンズになっていて、成績も低迷していた。この年のシーズンオフに西武鉄道グループの国土計画が球団を買収し、球団名を西武ライオンズとし、本拠地を新たに建設した埼玉県所沢市の西武ライオンズ球場に移転した。このタイミングで大型補強としてロッテオリオンズから野村克也、山崎裕之、阪神タイガースからも田淵幸一、古沢憲司といった主力選手をトレードで獲得していた。この時にライオンズから阪神タイガースにトレードされたのが真弓明信、竹之内雅史、若菜嘉晴、竹田和史であり、当時、大型トレードとして話題になった。
このような流れもあり、私はパシフィックリーグの球団では西武ライオンズをなんとなく応援していた。後に常勝球団というイメージがつく西武ライオンズだが、1年目のシーズンは最下位に終わっている。当時のパシフィックリーグは前期と後期に分かれていて、それぞれの優勝チームがプレーオフで対戦して、シーズンでの優勝チームを決めるというシステムになっていた。そして、西武ライオンズは2年目のシーズンである1980年の前期においても最下位であった。しかし、PR効果もあってか観客動員数は伸びていて、パシフィックリーグの中でもトップになっていた。
この日、当時、後楽園球場を本拠地としていた日本ハムファイターズと西武ライオンズとの試合がナイターで行われるということであった。父がチケットを買ってくれたので、その夜に観戦することになった。プロ野球を生で観るのは、その時が初めてであった。
試合に先がけて、アイドル歌手の柏原よしえがグラウンドに登場し、デビュー曲の「No.1」を歌った。後に本名と同じ漢字を用いた柏原芳恵に改名するが、デビュー当時は平仮名のよしえであった。ちなみに本名は柏原芳恵だが、「かしわばら」ではなく「かしはら」である。当時、日本ハムファイターズの4番を打っていたのが同姓の柏原純一選手であり、そのことも話題にしていた。
柏原よしえはこの年の6月1日に、阿久悠の作詞、都倉俊一の作曲というピンク・レディーでお馴染みのコンビによる「No.1」でデビューするが、この曲はオリコン最高76位に終わっている。翌年に7枚目のシングル「ハロー・グッバイ」で初のトップ10入りを果たし、その後、数多くのヒット曲を世に送り出した。デビュー当時、まだ14歳だったが、どことない大人っぽさがあった。同じ年にデビューした河合奈保子とは大阪出身者同士ということもあってか、仲が良かった印象がある。
地方都市に住んでいた私にとっては、芸能人を見る機会そのものがひじょうに限られているため、見ればすぐに好きになっていた。柏原よしえのデビュー・アルバム「How To Love」は翌年のお年玉で買ったのだが、アイドルのアルバムを買ったことが家族にバレるのが恥ずかしく、LPレコードではなくカセットテープで買い、学習机の一番下の引き出しの奥に隠していた。
試合は確か日本ハムファイターズが勝ったのではないかと思う。写真も何枚か撮ったので、実家のアルバムには貼られているはずである。当時、家では私が阪神タイガースのファンで、弟が西武ライオンズのファンということになっていたので、弟へのお土産のために、ライオンズ友の会とかいうやつに入会したのではなかったかと思う。球場での観戦などについての特典については、旭川にいてはまったく受けられるはずがないのだが、数千円の会費で帽子とか球団旗とかいろいろもらえて、それだけでもお土産になるのではないかと思ったのである。
この時、東京にはおそらく3,4日間滞在していたのだが、一部を除いてはどのような順番で過ごしたのかをあまりはっきりとは覚えていないのだ。銀座のホテルに泊ったことがあり、その夜に「銀座をぶらぶら歩くこと」を意味する銀ブラなるものも試みてみたのだが、当時、中学生だった私にはなにが面白いのかさっぱり分からなかった。
東京に滞在していた最後の夜に、有楽町の銀座スカイラウンジで食事をした記憶があるので、銀座に泊っていたのはこの日だった可能性が高い。東京の夜景を見下ろしながら、おそらく将来、この街で暮らすのだろうなという予感はしていたが、あれ以来、ここには来ていない。初めて食べたスモークサーモンというものが、やたらとおいしかった記憶がある。
地方に行くと〇〇銀座というのがよくあるものだが、旭川にも銀座通り商店街というのがあり、銀ビルという建物の最上階がスカイラウンジになっていた。家族や親戚の人達と何度かここで食事をしたこともあったのだが、いつの間にか建物は残っているが、スカイラウンジの営業は中止されてしまった。
一日、はとバスのツアーにも参加したはずである。NHK、船の科学館、上野動物園などに行った記憶があるのだが、あまり覚えていない。船の科学館の前で参加者全員で撮った記念写真がおそらく実家には残っていて、笹川良一会長も一緒に写っていた。
また、移動するにはやはり新宿駅を経由する場合が多かったのだが、夏休みということもあり、人はものすごく多かった。電車の乗り換えのためにスイスイと歩いて行く父の後ろをただついていくだけだったのだが、その間、なぜか当時ヒットしていた長渕剛「順子」のある部分が頭の中で鳴り続けていた。それは、「やさしさはいつも僕の前で カラカラ空回り」の所であり、何度頭の中で歌ってみても、メロディーに歌詞の字数が収まらなかったのである。そのような気持ち悪さをマイルドに味わいながら、おそらく西口の方だったと思うのだが、暑い日に人混みの中をただ歩いていた。
「順子」は「ザ・ベストテン」でも当然、ランクインしていたのだが、当時、ニューミュージック系のアーティストの中にはテレビの歌番組への出演を拒否する者も多く、長渕剛もそのうちの一人であった。しかし、ファンからの要望に応え、7月31日放送の回には出演したのだが、その日に限って私は疲れて寝過ごしてしまい、観ることができなかったのであった。
この年の元旦にリリースされたシングル「TOKIO」において、沢田研二が「スーパーシティ」と歌い、いつの間にか始まっていたテクノブームにおいては、その中心的存在であったイエロー・マジック・オーケストラが「テクノポリス」であると、当時の東京を表現していた。
この夏休み、私は教材メーカーが開催している夏期講習に通っていたのだが、ランチ代としてもらっていたお金を節約してレコードや本を買ったりもしていた。そのうちの1枚がシーナ&ザ・ロケッツの「ユー・メイ・ドリーム」である。リリースは前年の12月だったが、この夏にオリコンの20位以内に入るヒットを記録していた。シーナ&ザ・ロケッツはストレートなロックンロール・バンドだったのだが、当時、イエロー・マジック・オーケストラと同じアルファレコードからレコードがリリースされていたことや、「ユー・メイ・ドリーム」を細野晴臣がプロデュースしていることなどから、テクノ/ニュー・ウェイヴの一派として見なされていたようなところもある。
イエロー・マジック・オーケストラについては、気がつくと周りにレコードを持っている人達がたくさんいたので、私は買わずに、むしろ同じテクノポップでもプラスチックスのファンであった。旭川には護国神社祭、上川神社祭という2つのわりと大きめのお祭りがあるのだが、この時にはそれ用に少しだけお小遣いをもらえたりもする。私の友人は祭りではなるべくお金を遣わずに、駅前の貸しレコード店でイエロー・マジック・オーケストラのレコードを借りていた。店名は確か「風優詩音」と書いて「フュージョン」と読むのだったような気がする。当時、流行していたスポーツサイクルにはカゴはついていないし、付いていたとしてもLPレコードを入れるには小さすぎる。そこで後ろの荷台的な所に紐で括りつけるのだが、強く縛りすぎるとジャケットに折り目がついたりレコード盤が反ったりして弁償させられる、というような噂が流れていた。私はそれに怯えて、旭川では貸しレコード店を一度も利用しなかったと思う。