セクハラの旦那。 | …

i am so disappointed.

ツイッターのタイムラインを眺めていたところ、「おっさんは存在そのものがセクハラみたいなもの」というツイートが流れてきて、さすが私のフォロワーさんたちは信用できるな、と改めて実感したのであった。

 

「おっさんは存在そのものがセクハラ」は、私は常日頃から念頭において行動、言動を行っている、ひじょうに重要な真実である。といっても、もちろん私が自分で思いついたものではない。数年前に私が尊敬するある方が自分自身のことについて、おっさんは存在そのものがセクハラだから、自分からは積極的に若い女性と仲よくならないようにしている、と発言していたのだ。それを知ってまったくその通りだと思ったし、それは常に意識していこうと心に決めたのであった。

 

「おっさんは存在そのものがセクハラ」という自覚は、国のトップに近い所にいる人物が平気でセクシャル・ハラスメントをはたらき、謝罪して反省するどころか、居直って被害者を脅していると取られても仕方がないような言動をし、日常生活においても至るところにセクシャル・ハラスメントが見られるような環境においては、丁度いいのではないかと思うのだ。

 

意識していないと、周囲の権力があったり声が大きいセクハラ糞野郎に流されたり、同調圧力によって、自分自身もセクシャル・ハラスメントに加担してしまいかねない。そこで正しく考え、言動や行動に移すには日頃からの心構えと訓練とが必要なのかもしれない。それぐらい酷いというのが、現状であろう。

 

たとえば「おっさん」である自分自身が「存在そのものがセクハラ」という自覚を持つことによって、自己肯定感が低くなったり卑屈になったりするかというとそんなことはなく、むしろその真逆である。自分自身の「存在そのものがセクハラ」であると自覚することによって、そうならないための心構えが生まれ、それは行動や言動にあらわれるはずである。もちろん、そのような自覚を持っている方が、先ほどあげた私が尊敬するある方においてもそうだが、女性からの支持を得ている。

 

ところが、ツイッターを軽く検索してみると、この「おっさんは存在そのものがセクハラ」という心構えに関するツイートを目にした男性の相当数が余裕をなくし、あたかも存在を否定されたかのように、ギャーギャー泣き喚いているのである。

 

だっさ。

 

閑話休題。

 

セクシャル・ハラスメントが問題視されるようになり、それならばどのようにして女性とコミュニケーションを取ればいいのだ、というような意見を時々目にして、気が重くなる。

 

セクシャル・ハラスメントをしないで女性とコミュニケーションを取るということは、そんなに難しいことだろうか。セクシャル・ハラスメントと取られかねないこと以外に、女性と話す話題がないのだろうか。

 

私は自分自身が「おっさん」であり、「存在そのものがセクハラ」だという自覚があるため、先ほども述べたように、自分から積極的に女性と仲よくならないようにはしている。実際には趣味や食べ物の話題で盛り上がったり、個人的な悩みの相談を受けたりとかで、ときには妻以外の女性と二人きりで食事をしたり、カラオケに行ったりということはある。しかし、自分自身が「おっさん」であり、「存在そのものがセクハラ」だという自覚があり、相手の女性が私と性的な関係を持ちたいと考えている可能性はあるはずがなく、それ以外の付加価値を私に認めてくれているからこそ、一緒に時間を過ごしてくれているのだと思う。大の大人がそれぐらいの判断がつかないはずもなく、性的な好意と勘違いをしたなどといってセクシャル・ハラスメントに及んでしまうような男性は、明らかに確信犯であろう。

 

いまから何年か前の話になるが、当時、私は新大久保などにあらわれて外国人に嫌がらせをするレイシストたちを罵倒したり、ヘイトスピーチを禁止する法律ができるようにはたらきかけるような運動に協力するスタンスを取っていた。当時、親しくしていた友人と高円寺で飲食をしていて、たまたまこの話になった。友人は中国人や韓国人に対する悪い感情は日本にはずっとあるものであり、それを無くすることは難しいと言った。確かに難しいのかもしれないが、それをわざわざ彼らが生活する場所にまで行って大声でがなり立て、恐怖をあたえることが放置されてもいいのか、と私は問うた。すると友人は、それは自分にとっては重要な問題ではなく、もっとやらなければいけないことはたくさんある、というようなことを言った。日常は仕事や家庭や趣味や社会活動など、様々な時間で成り立っていて、そのバランスをどう取るのかは人それぞれである。重要ではないと思い、他にもっと重要なことがあるというのならばそれをやればいいし、このことについては黙っていればいい。しかし、何かと難癖をつけてくるのである。そんなことをやっても何も変わらない、どっちもどっちだ、その他、さんざん聞き飽きた内容である。

 

しばらくして、何かの事件があり、私はひじょうに怒っていた。そのことをブログに書いたところ、その友人がそれを何だか茶化すようなメールだかコメントだかリプライだかを送ってきた。彼とはずっと音楽や小説やサブカルチャーの話をしてきて、価値観が合うところもあれば合わないところもあり、それでもその濃密さやしつこさに通じる部分があったため、わりと愉快な付き合いを数年間にわたって続けていた。何事もおもしろ可笑しくネタとして消費し、真面目に熱くなりすぎることをバカにしがちな習性は、あの頃のサブカルチャーを通過してきたがゆえに共通するもののようでもあった。しかし、当時、リアルにヘイトスピーチの酷さを知り、私にはおもしろ可笑しいよりも重要なことがあると思えたのである。本気でブチ切れた私と友人とのやり取りはそのときで途絶え、以来、二度と会ってはいない。

 

レイシズムやヘイトスピーチの問題はその後、マスコミでも取り上げられるようになり、世間一般的な認識も高まったこともあり、その勢いはどんどん失われていったし、ヘイトスピーチ対策法も可決、施行された。もちろん無くなってはいないのだが、かなりましになったことは事実であろう。

 

友人はなぜあのとき、そんなことをやっても何も変わらない、などと言ったのであろうか。もしそう思っていたとしても、親しい友人が本気で取り組もうとしていることに対し、なぜ水を差すようなことを言ったのだろうか。

 

可能性は2つ考えられる。1つには、じつはそのことを問題だとは思っているのだが、それほど強い動機づけもないのでわざわざ時間や労力を使ってまで行動をしたくはない。だから、そんなことをやっても何も変わらない、意味が無い方が都合がよかった。

 

もう1つは、じつは友人にも中国人や韓国人を差別する感情があり、むしろそれを肯定してさえいた。しかし、友人である私との直接の衝突を避け、そのような言い方になってしまった。

 

いまとなっては確かめようもないし、どうでもいいのだが、こういうときに関心が無いのならば黙っていればいいものを、何か言わずにはいられない人というのは、おそらくそれが上手くいくと都合が悪い人たちなのであろう。

 

たとえば、このまま外国人を気持ちよく差別して娯楽として消費したいと考えている人たちによっては、それがやりにくくなることはひじょうに望ましくないことである。つまり、反差別活動に難癖をつける人たちの本音というのは、いままでのように気軽に差別を楽しみたい、差別ができなくなるとひじょうに困る、というようなものなのだろう。

 

セクシャル・ハラスメントの問題において、今回も明らかになったのだが、日本においては被害者の側を非難する声も多く、これは異常なことのように思える。

 

セクシャル・ハラスメントにおいて被害者を非難している人たちの本音というのもおそらく、いままでと同じように気軽に楽しく性的いやがらせをエンジョイして、女性たちを苦しめて自分はいい気分になりたいという、醜くも卑しい心性のあらわれなのだろうと、私はそのように考えている。だから当然、できるだけ無くしていきたいと強く思うのである。