DO YOU BELIEVE IN LOVE | …

i am so disappointed.

「波の数だけ抱きしめて」という映画があり、これは1991年8月31日、つまりフリッパーズ・ギターが「ヘッド博士の世界塔」をリリースして、突然解散したあの夏の終わりに公開されている。

 

監督は「私をスキーに連れてって」などの馬場康夫、リアルタイマーには「気まぐれコンセプト」「見栄講座」のヒットで知られるホイチョイ・プロダクションの代表といった方が分かりやすい場合もある。

 

当時、私はまったく興味が無かったのでこの映画を観ていないのだが、つい数年前にAORの名曲が劇中で多数使用されているということを知り、観てみたところかなりおもしろかった。

 

舞台は1982年の湘南にあるミニFM局であり、中山美穂、織田裕二、松下由樹などが出演している。公開時、主演の中山美穂は21歳だったが、劇中でも女子大生という設定であった。

 

この頃、私は北海道の旭川で高校生だったのだが、東京の大学生のライフスタイルにはかなりの憧れがあった。「POPEYE」や「Hot-Dog PRESS」、あるいは「なんとなく、クリスタル」の世界である。

 

この映画では髪型やファッション、音楽など、かなりの時代考証がなされていると思われ、当時、憧れることしかできなかった感じが追体験できるような楽しみがあった。

 

水上オートバイの件など、時代考証がおかしい部分もあるらしいのだが、私のようなただのミーハーにはまったく気がつかないレベルである。

 

中山美穂が演じる田中真理子が番組でかけるためのレコードをタワー・レコードで買ってくるのだが、そのジャケットの匂いを嗅ぐシーンなどは最高である。

 

当時のタワー・レコードは洋楽の、しかも輸入盤しか置かれていなかったような気がする。

 

私はタワー・レコードの日本1号店である札幌店を、高校生の頃からたまに利用していた。というか、夏休みや冬休みの最大の楽しみは、そこで輸入盤のレコードをたくさん買うことであった。

 

現在のタワー・レコード札幌ピヴォ店よりもっとすすきの寄りの、五番街ビルという建物の何階かにあったはずである。ドアを開けると、そこはもうアメリカという雰囲気であった。店員も客も日本人ばかりだったのだが、タワー・レコードいえば、日本の中のアメリカという感じがしていた。

 

高校を卒業して上京してからも、そのような印象は相変わらず持っていて、実際にどうだったのかは定かではないのだが、アメリカのヒット・チャートものではない、イギリスのインディーズ系のレコードなどは、タワー・レコードではなく、六本木ウェイヴなどで主に買っていたような記憶がある。

 

そんな思いもあり、ある時期から渋谷のタワー・レコードが2階で日本のロック&ポップスのCDを取り扱いはじめた時には、少し残念な気持ちもあった。しかし、もしもあそこであの選択をしていなかったとしたら、もう日本にもタワー・レコードは無くなっていたのではないだろうか。

 

もちろん、タワー・レコードの嶺脇育夫社長が立ち上げたT-Palette Recordsに所属するNegiccoと、私が出会うことも無かったのかもしれない。

 

当時、輸入盤のレコードにはビニールがかかっていて、これを剥がすと独特の匂いがした。日本では使用されていないタイプの特殊なインクの匂いだったのか何だったのかは定かではないのだが、あれを通じて遠い異国に思いを馳せていた。

 

この映画のあのシーンは、そんな記憶をよみがえらせてくれた。

 

あの輸入盤に付いているビニールをレコードの取り出し口だけ破いて、付けっぱなしにしている場合もあった。何となくそっちの方がカッコいいような気がしていたのだが、何かでそのビニールが収縮してレコードのソリにつながるというような話を聞いたような気がして、その真偽は定かではないのだが、ある時期から完全に剥がして捨てるようになった。

 

先述したように、この映画にはAORの有名曲が多数収録されていて、サウンドトラックCDはこのジャンルの入門盤としても使える内容なのではないかと思う。

 

この映画に関連したCDはサウンドトラック以外にもリリースされていて、それは「Summer of 1982~Kiwi FM プレイリスト」というタイトルのコンピレーションである。

 

映画に出てくる湘南のミニFM局がどのような曲をかけていたのか、というコンセプトで編まれたCDで、もちろん1982年の夏以降にリリースされた曲は一切収録されていない。

 

アメリカン・ロック、AOR、ブラック・コンテンポラリーなど、当時の音楽好きな大学生が聴いていたであろう曲が多数選曲されていて、収録曲のほぼ全てを別のアルバムで持っているにもかかわらず、このコンピレーションの流れで聴きたくなることが多い。途中でこのミニFM局のジングルが挟まれていたりするのも、なかなか気分である。

 

ドゥービー・ブラザーズ「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」とTOTO「99」の間に、ヒューイ・ルイス・アンド・ニュース「ビリーヴ・イン・ラヴ」が収録されている。

 

「ホワット・ア・フール・ビリーヴズ」と「99」は共に1979年リリースのヒット曲なのに対し、「ビリーヴ・イン・ラヴ」はこの年の初めにリリースされた、ホットなヒット曲であった。

 

全米ヒット・チャートで最高位の7位を記録したのは4月17日付で、その週の1位はジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ「アイ・ラヴ・ロックン・ロール」であった。

 

以下、ゴー・ゴーズ「ウィ・ガット・ザ・ビート」、ヴァンゲリス「チャリオッツ・オブ・ファイアー」、J・ガイルズ・バンド「フリーズ・フレイム」、オリヴィア・ニュートン・ジョン「ムーヴ・オン・ミー」、リック・スプリングフィールド「ドント・トーク・トゥ・ストレンジャーズ」と続く。

 

8位以下はバーティ・ヒギンズ「キー・ラーゴ」、ジャーニー「オープン・アームズ(翼をひろげて)」、スティーヴィー・ワンダー「ザット・ガール」である。

 

バーティ・ヒギンズ「キー・ラーゴ」は「波の数だけ抱きしめて」でも使われているが、日本ではシングル「カサブランカ」のB面としてリリースされた。本国ではまったくヒットしていない(シングルとしてリリースされたかどうかすら定かではない)「カサブランカ」が、日本ではオリコン13位のヒットを記録した。

 

郷ひろみの日本語詞によるカバー・バージョン「哀愁のカサブランカ」も最高2位、50万枚を超える大ヒットとなった。郷ひろみの長いキャリアの中でも、1974年の「よろしく哀愁」に次ぎ、2番目に売れたシングルのようである。

 

当時、旭川で高校1年生であった私は、全米ヒット・チャートをチェックしはじめてから数年目であり、ジャンルやテイストが異なるこれらの曲を浴びるように聴きまくっていた。

 

ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの「ビリーヴ・イン・ラヴ」も、そんなヒット曲の1つとして認識していた。

 

「Summer of 1982~Kiwi FM プレイリスト」を聴くと、同じ頃、少し年上である音楽好きの大学生たちはこのような流れでこの曲を楽しんでいたのかと思え、なかなか楽しいものである。

 

イントロからしてすでに心躍るようであり、曲調はとにかく爽やかなアメリカン・ロック、それにヒューイ・ルイスのやや塩辛いボーカルが丁度よい加減である。

 

ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースにとって、この「ビリーヴ・イン・ラヴ」が初めてのヒット曲であり、以後、「ハート・オブ・ロックン・ロール」「パワー・オブ・ラヴ」など数々のヒットを連発するのだが、私はこれが一番好きである。

 

この年の初夏、親戚の集まりで洞爺湖に泊った。この年代の高校生にとって、親戚の集まりというのはそれほどおもしろいものではない。宿泊先のホテルで、深夜にトランジスタラジオを聴いていた。「全米トップ40」で何が1位になったかは、大きな問題だったからである。

 

ポール・マッカートニー&スティーヴィー・ワンダーの「エボニー・アンド・アイボリー」にかわり、ヒューマン・リーグの「愛の残り火」が初の1位に輝いた。

 

「愛の残り火」は少し前から全米トップ40に入っていたので、カセットテープにも録音して他のヒット曲と一緒に何度も聴いていた。電子楽器が中心のサウンドや暗い感じのボーカルなど、他のヒット曲とは異質な感じがあり、この頃は良さがよく分かっていなかった。

 

当時、イギリスのニュー・ウェイヴ・バンドが全米1位になること自体が珍しいことだったのだが、翌年になるとデュラン・デュランやカルチャー・クラブをはじめ、イギリスのバンドやアーティストが次々と全米チャートの上位に入っていった。この現象は「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」などとも呼ばれていた。「第1次ブリティッシュ・インヴェイジョン」はビートルズやローリング・ストーンズの1960年代中盤に起こったらしい。

 

その頃になると、単なるミーハーである私は、イギリスの新しいバンドたちが大好きになっているのだが、全米ヒット・チャートのテイストは、その前年とはガラッと変わってしまった。

 

翌朝、旭川に帰る前に、札幌で少しだけ自由行動ができる時間があった。とてもよく晴れた、日曜日の午後であった。私はもちろん五番街ビルのタワー・レコードに行った。

 

夏休みでも冬休みでもなかったし、レコードを買うことが目的で来たわけでもなかったので、お金はあまり持っていなかった。LPレコードを1枚買うのがやっとである。

 

その時、どうしても欲しいというレコードは特に無かったのだが、せっかくタワー・レコードに来たのだから買っておこうという感じであった。そこで選んだのが、「ビリーヴ・イン・ラヴ」が収録されたヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースのアルバムであった。

 

もちろん、輸入盤である。ジャケットにはヒューイ・ルイスの顔写真がイラスト風に加工されたようなものが使われていた。タイトルは、「ピクチャー・ディス」である。

 

日本盤のジャケットは、同じヒューイ・ルイスの顔写真をモデルにしながらも、完全なイラストになっていた。背景には輸入盤には無かった夜空と建物も描かれている。タイトルも「ベイエリアの風」という、原題とはまったく異なったものであった。

 

このイラストを描いていたのは、山下達郎「FOR YOU」のジャケットや雑誌「FM STATION」の表紙などで知られる鈴木英人であった。街、車、リゾートなどが描かれていることが多く、そのイラストを見ただけでシティ・ポップやAORのテイストが感じられた。

 

つまり、当時のレコード会社は、ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースがそのようなリスナー層に受けるだろうと読んでいたということなのだろうか。

 

「ベイエリア」とはアメリカ合衆国カリフォルニア州にある、サンフランシスコ湾の湾岸地帯のことを指すらしい。この辺りが、アメリカ西海岸音楽のメッカだったのだろうか。

 

RCサクセションが1980年にリリースした「トランジスタ・ラジオ」には、「ベイエリアから リバプールから このアンテナがキャッチしたナンバー」という歌詞がある。「リバプール」はおそらくビートルズだと思うのだが、「ベイアリア」からキャッチしたナンバーとは誰のどのような曲だったのであろうか。

 

当時、日本のレコード会社はヒューイ・ルイス・アンド・ニュースをプロモートするにあたり、アメリカ西海岸のバンドということをかなり強調していたらしく、アルバム・タイトルが「ベイエリアの風」である他に、「ビリーヴ・イン・ラヴ」に続いてシングル・カットされ、全米36位を記録した「ホープ・ユー・ラヴ・ミー・ライク・ユー・セイ・ユー・ドゥー」には、「サンフランシスコ・ラヴ・ソング」という邦題が付けられていた。

 

この翌年あたりから「第二次ブリティッシュ・インヴェイジョン」が活発化し、全米ヒット・チャートのテイストが変わっていったことは先ほども書いたのだが、その要因となったのはMTVの普及だといわれているようだ。

 

しかし、今回、「ビリーヴ・イン・ラヴ」について調べていて知ったのだが、この曲がヒットしたのにも、じつはMTVの影響が大きかったのだという。眠っている女性に歌いかけるビデオがユニークであり、これが受けて、ヒットにつながったらしい。

 

当時、日本でも「ベストヒットUSA」という洋楽のビデオを流す番組があり、音楽ファンは熱心に観ていたものだが、私にはこのビデオをリアルタイムで観たという記憶がない。

 

北海道のHTB(北海道テレビ)では「ベストヒットUSA」がなかなかネットされずにやきもきしていたのだが、放送を要望する嘆願書を用意しようとしていたぐらいのタイミングで放送されるようになったので、ひと安心であった。

 

いつ頃からネットが開始されたか調べようとしたのだが、正確には分からなかった。ジョン・クーガー(現在のジョン・メレンキャンプ)の「ジャック・アンド・ダイアン」が1位だった週のビデオを何度も観た記憶があり、「ベストヒットUSA」で用いられていたのは「ラジオ&レコーズ」のチャートだったが、ビルボードでこの曲が1位になったのは1982年10月2日付である。よって、この年の10月からネットが開始された可能性が高い。

 

今回、「ビリーヴ・イン・ラヴ」のことを調べていて、もう1つ驚いたことがあった。作者がロバート・ジョン“マット”ランジとなっていたので、さらに調べていったところ、じつはこの曲はヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースよりも以前にスーパーチャージというイギリスのバンドによってレコーディングされていて、その時のタイトルは「ウィー・ボース・ビリーヴ・インラヴ」というものだったようだ。音源を聴いてみたところ、コーラス部分もそのように歌われていた。

 

ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースのバージョンよりも、ソウル/R&Bのテイストが強いような気がする。

 

このスーパーチャージのボーカルがロバート・ジョン“マット”ランジだったようなのだが、AC/DCやデフ・レパードといったハード・ロック・バンドのプロデューサーとして、有名だということである。

 

 

 

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