「ナツマチ」は日本のロック・バンド、GREAT3が1997年にリリースした3枚目のアルバム「ロマンス」の収録曲である。
この曲には、「憶えているかい 1999年 夏に世界が終わるなんて話」という歌詞がある。
ある年代以上の方々にはお馴染みの、「ノストラダムスの大予言」である。この予言は外れ、世界は終わらなかった。ゆえに、あれから18年が過ぎようとしている現在、私はこのような呑気なブログを書いていられるわけである。
いまやすっかり懐かしくなってしまった話題であり、この曲においても、「憶えているかい」と、なんだか昔のことを思い出しているような感じある。
しかし、先にも書いたように、この曲のリリースは1997年であり、まだ世界が終わるかどうかは分からない状態なのである。
そして、少し後には、このような歌詞がある。
「君を抱いていられないのなら あと2回しか夏が来なくてもいい」
そう、これは明白に1997年の夏を待つ曲であり、他の年には当てはまらないことになる。
「君」を抱いていないぐらいなら、世界が終わってしまっても一向にかまわない。つまり、世界が終わらずに続いていくことは、「君」を抱いていられることによってはじめて意味や価値を持つ、ということなのであろう。
この曲には、「君を抱いていられないのなら」というフレーズが3回出てきて、この「あと2回しか夏が来なくてもいい」は、そのうちの最後である。
ます最初は、「君を抱いていられないのなら 死んだほうがましだ」というものである。
人はよく何々できないぐらいなら死んだ方がましだというようなことを言いがちではあるが、それはどの程度において本気なのであろうか。おそらく、大抵の場合、じつは死ぬほどのことではないのであろう。
多くの人々の人生において多用されるであろう、「一生のお願い」といったものによく似ているのかもしれない。
しかし、「君を抱いていられない」ようなこと、つまり、失恋を原因として自らの生命を絶つということは実際にあるし、芸術作品などにおける例も少なくはなく、けしてイメージすることが難しいことではないのではないか、という気がする。
人生において、恋愛のようなものがどれだけのウェイトを占めているか、また、実際にはそうではないにしろ、占めていることが理想的であると思えているか、その度合いによって、共感の強さは異なることであろう。
私の場合は、そのような要素が幸福か幸福ではないかを決める上で、99.99999999%ぐらいを占めると考えている者なので、そのような事件を美しいと考えがちではある。
しかし、「ナツマチ」においては、次にこのような歌詞が続くのである。
「どうにかしたい 夏が来るまでに」
つまり、夏が来るまで、つまりおそらく夏を間近に待っているであろう、現時点からそう遠くない将来に、どうにかならないとも限らない、そのような状況なわけである。
であれば、おそらく「死んだほうがましだ」というのもじつはそれほど深刻に考えているわけではないのではないか、という気がしてくる。
様々な理由によって、成就する可能性がきわめてゼロに近いにもかかわらず、それでもそれ以外に幸福になる方法が考えられず、他のもっと浅くて薄い目的に逃げるぐらいならば、たとえ成就する可能性がゼロであったとしても、その可能性を妄想するか、もしくはただただ想い続けながら死んでいくことの方を選ぶと、そのような境地には至っていないのではないかと思う。
果たしてそのような境地が実際に存在するのか、一時の気の迷いなのではないだろうか、その判断は残念ながら私にはできない。なぜなら現在、自分自身がその渦中にいると言えなくもないからである。
たとえば男がこのようなことで鬱々としている状態というのは、けして見栄えのするものではなく、できれば避けておきたいところである。しかし、そのような意識的なコントロールが及ぶ状況ではすでになく、また、寧ろそのような心境に浸っていることについての肯定的な美意識などを持ち合わせていた場合などは、さらに性質が悪いことになるのである。
そして、「ナツマチ」には、以下のような歌詞もある。
「男らしさなんて ことにうんざり でも別に 女になる気もないし」
そして、その後に2回目の「君を抱いていられないのなら」で、今度は「今夜ベッドの中 君想いながら ひとりくりかえし」である。
曲はこの後、間奏に入るのだが、ビデオ「PRIVATE LESSON」に収録されたこの曲のライブ映像を観たところ、この場面にはものすごく切なげな表情とムードがあり、それがまたリアリティーを増幅させたのであった。
「今夜ベッドの中 君想いながら ひとりくりかえし」とは、一体どのような状況なのだろうか。言うまでもなく、私は自分自身を慰めるタイプの行為を想像した。
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