ピンク・タイフーン | …

i am so disappointed.

1979年5月14日付のオリコン週間シングル・ランキングの第9位は、ピンク・レディーのによる12枚目のシングル「ピンク・タイフーン」である。

 

この曲はアメリカのディスコ・グループ、ヴィレッジ・ピープルによる「イン・ザ・ネイヴィー」のカバーであった。

 

ヴィレッジ・ピープルメンバーそれぞれが様々な職業のコスプレをし、ゲイのイメージを前面に押し出していることから、ビジュアル的にもかなりインパクトの強いイメージがある。

 

最大のヒット曲は、この年の2月に全米2位を記録した「Y.M.C.A.」であろう。日本ではこの曲を西城秀樹が「YOUNG MAN」のタイトルでカバーし、オリコン1位、売上80万枚を超える大ヒットを記録していた。

 

前年の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」、また、ビー・ジーズらによるそのサウンドトラックの大ヒットにより、ディスコ・ブームは全米チャートを席巻していた。

 

「Y.M.C.A.」が2位を記録した1979年2月10日のランキングにおいては、他にロッド・スチュワート「アイム・セクシー」(1位)、シック「おしゃれフリーク」(3位)、グロリア・ゲイナー「恋のサバイバル」(7位)、アース、ウインド&ファイアー「セプテンバー」(8位)といったディスコ・クラシックスもまた、上位にランクインしている。

 

ヴィレッジ・ピープルが「Y.M.C.A.」に続いてリリースしたシングルが「イン・ザ・ネイヴィー」であり、これも全米3位のヒットを記録している。

 

最高位の3位を記録したのが5月19日なので、ピンク・レディーのカバー・バージョンがオリコンの上位にランクインしていたのとほぼ同時期ということになる。

 

ピンク・レディー「ピンク・タイフーン」がリリースされたのはこの年の5月1日だが、原曲であるヴィレッジ・ピープル「イン・ザ・ネイヴィー」の日本盤はこの1週間前、4月25日にリリースされ、この週は19位にランクインしている(最高位は16位である)。

 

また、さらに約1週間後の5月9日には男性アイドル歌手の渋谷哲平が「イン・ザ・ネイヴィー」を「ヤング・セーラーマン」のタイトルでカバーしたシングルが発売され、こちらはオリコン最高38位を記録している。

 

ヴィレッジ・ピープルにはもっとたくさんのヒット曲があるイメージを持っていたのだが、調べてみたところ、全米100位以内に入ったのが「Y.M.C.A.」「イン・ザ・ネイヴィー」を含め、5曲のみということであった。

 

オリコンの週間シングル・ランキングの100位以内に入った曲は8曲あり、こちらの方が多いぐらいであった。

 

このうち1978年に全米25位、日本で41位を記録した「マッチョ・マン」は、とんねるずが1970年代ディスコ文化にオマージュを捧げた1987年のヒット曲、「嵐のマッチョマン」(最高2位)にインスパイアをあたえたと思われる。

 

また、1979年に全米45位、日本で43位のゴー・ウエストは1993年にイギリスのポップ・デュオ、ペット・ショップ・ボーイズがカバーし、全英1位の大ヒットとなっている。

 

ピンク・レディーが「ペッパー警部」でデビューしたのは、1976年の夏であった。当時、私は小学4年生だったのだが、テレビに映るその姿はかなり衝撃的であった。ミニスカートの衣装で脚をパカパカと開いたり閉じたりしながら歌うそのパフォーマンスが、それまでに見たことのない種類のものであった。

 

続いてリリースされた「SOS」も大ヒットし、これが初のオリコン1位を記録するのだが、当時はまだ「ザ・ベストテン」すらはじまっていなく、ヒット・チャートにはまだ興味を持っていなかった。

 

その春、父の仕事の都合で旭川に引っ越しことになり、当時の仲間たちとのお別れはとても辛いものではあったのだが、それを機により都会的なものへの興味がわいていったともいえる。

 

旭川の小学校に転校したばかりの頃、「カルメン’77」が大ヒットしていた。ピンク・レディーのシングルは「SOS」から「カメレオン・アーミー」まで9作連続で1位を記録していたわけであり、私が小学校を卒業する寸前まで、ずっと売れまくっていたのである。

 

1979年3月9日発売の「ジパング」が最高4位に終わり、これで連続1位の記録が途絶えた。その次にリリースされたのが、「ピンク・タイフーン」である。

 

この頃、中学校に進学したばかりの私の周りではアリス、ゴダイゴ、サザンオールスターズといったニューミュージック系のアーティストを聴いている方がカッコいいというような雰囲気がなんとなくあり、ピンク・レディーの人気にも明らかに翳りが見えてきていた。

 

「ピンク・タイフーン」は洋楽のカバーであり、サビの「イン・ザ・ネイヴィー」という部分を、何となく語感が似ている「ピンク・レディー」と歌っているあたりなど、確かに軽快でイカしてもいるのだが、小学校高学年の頃にずっとトップを走っていたピンク・レディーにしてはやや軽すぎはしないだろうか、とかそのような印象を持っていた。

 

「やっちゃいな やっちゃいな やりたくなったらやっちゃいな」という掛け声のようなものも確かにノリがいいのだが、どこか寂しさを感じてもいた。

 

「ピンク・タイフーン」の最高位は6位で、次の「波乗りパイレーツ」は4位だったが、それがピンク・レディーにとって最後のトップ10ヒットになった。

 

この頃、ピンク・レディーはアメリカ進出を狙っていて、英語詞による「キッス・イン・ザ・ダーク」を海外でもリリースしたりしていた。全米37位という記録は、日本人アーティストとしてはかなり健闘したといえるのではないだろうか。

 

私はけしてピンク・レディーの熱心なファンではなかったのだが、「UFO」「透明人間」「モンスター」あたりのシングル、そして、テレビ番組の主題歌や当時、数え切れないほど出演していたCMソングのメドレーなどを収録したアルバム「星から来た二人」などは買って持っていた。

 

学級で繰り広げられたミー派かケイ派かの論争、また、女子たちの振りコピに見る熱狂など、その社会現象化した状況をど真ん中で体験することができた。

 

1978年のクリスマスには、雪印のフローズン・ケーキをリクエストした。なぜなら、ピンク・レディーの「透明人間」の振り付けがパラパラ漫画の写真版のようになった冊子が付いていたからである。

 

中学校への進学にあたっては、学研の「中一コース」か旺文社の「中一時代」のどちらを年間購読するかという選択があった。1979年においては、「中一コース」がピンク・レディー、「中一時代」が王貞治の、それぞれサイン入り万年筆が特典としてもらえた。私はピンク・レディーの「中一コース」の方を選んだ。

 

当時はまったく知らなかったのだが、「ピンク・タイフーン」のB面は、アラベスク「ハロー・ミスター・モンキー」のカバーだったようである。

 

アラベスクはドイツのポップ・グループであり、「ハロー・ミスター・モンキー」は、当時、日本で大ヒットしたディスコ・ソングだったのだが、じつはヒットしたのは日本だけだったようである。

 

当時、ディスコっぽいポップ・ソングを歌う女性グループがたくさんいて、キャンディー・ポップなどと呼ばれていたが、なぜか日本だけで売れているというパターンがわりとあったようである。この辺りについては、また改めて研究してみたいと思う。

 

「ハロー・ミスター・モンキー」は「ピンク・タイフーン」の前年、1978年に日本でリリースされ、オリコン8位、38.8万枚のヒットを記録している。売上枚数では、「ピンク・タイフーン」の29.8万枚を10万枚も上回っているのである。