元々は趣味を楽しんでいたのだが、昨年の初夏ぐらいに趣味以外のことがとても楽しくなり、もうそれ以外に時間や労力を費やすのがもったいないというぐらいになっていた。
そして、わりとやりたいようにやってきたのだが、ここでその楽しくなった要因といえるものが失われてしまい、ならば元々の趣味をまた楽しめばいいのではないかと思うのだが、それがまったく楽しめない。
いずれその時期が来るのかもしれないが、いまはまだ全然ダメである。
とはいえ昨日の今日ではあるし、物理的にも今日のところはまだ遠くはないので、そんなにもすぐに切り替えられるものではない。
過去の経験からいっても、こういうのはおそらく時間が解決するものなのであろう。
しかし、当の私自身がそれをまったく望んでいない。できればまったく忘れたくはないし、この痛みを抱いて生きていきたい。これを癒すのであれば、それは忘れるのではなく、別の方法できちんとやりたい。では、具体的に何をいつまでにどうするのかという話になるのだが、そのイメージがいまのところはまだ湧かない。
それでも、おそらくそれだけがただ1つの理由なのだろうな、という気はしている。
とりあえず、明日、やらなければいけない仕事を済ませたら、その翌日と翌々日は1人旅なので、そこでじっくりと考えたい。
カーネーションの「いつかここで会いましょう」という曲の中に、「時はただ痛みを鎮めてくれるけど忘れちゃだめだ」という歌詞があるが、つまりそういうことなのであろう。
とにかくこの何をしていても楽しくない具合は異常なわけだが、それだけ濃い瞬間を生きているなという実感もあり、それはそれで良いのだと思う。
こんな時、自分が10代の頃に夢中になった音楽や映画などを視聴していい気分になるということをよくしていたが、いまやそれすらもまったく楽しくはない。知っているものを懐かしむ快感が、どうもいまは心地よくない。なぜなら、ここ数ヶ月間、自分自身には一生無関係だと思っていたいろいろな物事への扉を次々と開き、それらがもれなく刺激的で、かつ私がこの世の中で最も美しくかわいいと思える価値観の理解にもつながるという体験をし過ぎてしまったからである。
これを知ってしまった以上、もはや過去のものとして思い出にするにはあまりにも惜しく、おそらくこれと同等、もしくはそれ以上の充足感を求めて、これからゾンビのように生きていくのだろうか。
それは日常の中で簡単に見つかるかというと、おそらくそういうものではなく、だとしたら、もしも奇跡的にまたそのようなものに出会う機会があるとするならば、その時には絶対に手放すことがないように、それだけの力をつけている必要がある。そのために努力できることだけが、私が死なずに生きているただ1つの理由である。
それ以下や未満のことで、楽しかったりしあわせなふりをすることはもうやめようと思う。というか、実際にまったく楽しくもしあわせでもないわけで、その現実をしっかりと受け止めていきたい。なぜ楽しくもしあわせでもないかというと、それは現時点での私自身がその程度の人間に過ぎないからである。この屈辱と地獄のような悔しさにのたうち回ることこそが、いま取るべき最も正しい態度であろう。つまり、いまはこれでいいのだ。
とりあえずやるべきことを1つ1つ正確に片づけて、いつかまた再び心底やりたいことが心の中に生まれることを信じていきたい。その時にはそれを全力でやって、その結果、自分のレベルが上がり、次に心の底から本当に大切だと思えることに出会えた時に、二度とそれを失うことが無いようにしたい。
ちょっと何を言っているのか分からないような気もするが、私の中では完全に辻褄が合っているので、まったく問題がない。いまは不機嫌だし病んでいるし地獄のような気分だが、これをしっかりと味わいつくすことこそが正しいのだろう。ここからはじめる以外にはない。
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