約3ヶ月後にリリースした「Hey!ミスター・ポリスマン」で初のトップ10入りを果たすと、それから1985年の暮れにリリースされた「サイレンの少年」まで、13作品連続で第10位以内を記録した。
そうした数多いヒット曲の中で、「涙のペーパームーン」は最高位こそ第15位だが、セールスにおいては「Hey!ミスター・ポリスマン」「ミステリーウーマン」続いて3番目であり、登場週数においては「妖精時代」「ゆ・れ・て湘南」「Hey!ミスター・ポリスマン」「ミステリーウーマン」ち並び、最高を記録している。
石川秀美は1981年に開催された「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」において、西城秀樹の妹に選ばれ、それをきっかけに芸能界入りした。他の審査員は別の応募者を推していたようなのだが、西城秀樹が石川秀美を強く推し、それが反映した結果だったようだ。
デビュー曲は1982年4月21日に発売された「妖精時代」で、最高第31位というスタートであった。
この年は人気アイドルが多数デビューしたことで知られているが、特に人気があった中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、石川秀美、早見優、松本伊代などを指して、「花の82年組」などと呼ばれることもあった。
松本伊代のデビュー・シングル「センチメンタル・ジャーニー」は1981年10月21日の発売だったが、各音楽賞においては1982年の新人として扱われることから、「花の82年組」の1人とされていた。
2枚目のシングル「ゆ・れ・て湘南」は音楽賞の新人賞受賞者としてテレビで歌われることも多かったが、現在も80年代のアイドルポップクラシックとして認知されているであろう名曲である。次のシングル「哀しみのブリザード」は当時、ひじょうに印象が薄かったような気がする。最高位は「ゆ・れ・て湘南」と同じ第29位だが、セールスは大きくダウンしている。
そして、1983年の元旦に4枚目のシングルとしてリリースされたのが、「涙のペーパームーン」であった。
私は高校2年の冬休みであり、札幌の親戚の家に泊めてもらっていた。目的は、タワーレコードで輸入盤のレコードをたくさん買うことである。
タワーレコードの日本での1号店は札幌である。あの渋谷宇田川町の東急ハンズのすぐ近くにあったお店よりも、札幌の方が先なのである。札幌のタワーレコードも現在の場所ではなく、よりすすきの寄りにある五番街ビルという建物の中にあった。
当時のタワーレコードは、現在のように日本のアーティストによる作品を扱っていなかった。それどころか、洋楽の国内盤すら置いていない、完全な輸入盤専門店であった。エレベーターを上って、ドアを開けたらそこはもうアメリカという感じであった。いや、実際には客も店員も日本人ばかりなのだが、わりとそのような気分で利用していた。
アイドル歌手のレコード、特にアルバムといえば熱心なファンだけが買うものという印象だったが、この頃には少し変わりはじめていた。音楽ファンがニュー・ミュージックや洋楽と同様に、普通にアイドル歌手のアルバムを買うようなことも、少しずつ起こりはじめていた。
特に松田聖子のアルバムにはニュー・ミュージックの一流アーティストが多数曲を提供していて、クオリティーがとても高かった。
この冬休みに、私はタワーレコードでAORの名盤であるドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」などを買っていたが、同時に玉光堂で松田聖子の「Canary」や中森明菜の「バリエーション<変奏曲>」をも買っていたのであった。
「涙のペーパームーン」は、一聴してすぐに気に入った。疾走感あふれる曲調が最高だったし、「スキ スキ スキ スキ・ラ・イ」というキャッチーなフレーズのインパクトも強烈であった。そして、「飛んできて ウオウウオウ ティンカーベル」のところでは、かなり気分が盛り上がる。
石川秀美にはスポーティーかつ健康的なイメージが強かったのだが、デビュー年にリリースされた3枚のシングルにおいては、まだそれがうまく生かされていないような印象があった。いや、じつはそれにすらまだ気づいてはいなく、松本伊代のファナティックさや早見優の陰りあるバイリンガルという雰囲気が気に入っていた私には、石川秀美は健康的すぎて、魅力がうまく伝わっていなかったのである。
しかし、この「涙のペーパームーン」ではっきり分った。つまり、キャラクターにもハマっていたわけである。
これ以降、すっかりヒット・チャートの常連となる石川秀美だが、この1年後には旭川冬まつりにも来ている。私はもちろん見に行ったのだが、その時に歌っていた新曲の「めざめ」がまた素晴らしく、これについてはいずれ改めて書くことになると思う。
GOLDEN☆BEST/石川秀美

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