大人の社会科見学 日銀本店見学(後編)最後は西荻でつくねまみれ | 八ヶ岳ゆるふわ日記

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八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

(重要文化財「日本銀行本店(旧館)」西門前から 1896年江戸幕府金座のあったこの地に建てられた 背後は大手町プレイスイーストタワー)

 

 集合時刻の午後3時に日銀西門前に行くとすでに20人ほどのヒマ人、もとい同好の士が並んでいた。

 2時半頃に現地に着くと、警備のお巡りさんが「3時にならないと構内には入れません。雨も降りそうですし、向かいに「貨幣博物館(無料)」というのがありますから時間まで見学されてはどうですか」と親切に教えてくれた。

 せっかちなことでは目クソ鼻クソのAさんとそこでばったり。類は友を呼ぶ、というやつである。

 

(上空からの日銀

「旧館の意匠は「円」を模したもの」と巷間言われているが建築時は旧字の「圓」が使われていたのでこれは都市伝説に過ぎないらしい)

 

 我が国の中央銀行として日本銀行が設立されたのは1882年(明治15年)のこと。

 中央銀行の役割は「通貨の発行」、そして「通貨の供給を通じた経済のコントロール(特に物価の安定)」にある。この使命に従って1885年に初の日銀兌換券が発行された。

 

(純銀との交換を保証していたので「兌換券」と呼ばれた)

 

 我が国の通貨の歴史を簡単に振り返ってみよう。

 交易、蓄財といった経済活動が我が国で生まれたのは縄文期の頃。当時の主食のどんぐりを通貨とする「どんぐり本位制」経済が花開いた。

 おそらくこの頃は日照時間の長い落葉広葉樹林帯が金城湯池で、八ヶ岳南麓から諏訪方面の南斜面が一大文明地であったはずだ。

 

 弥生期に入り稲作が広がると生産様式は一変する。

 人々は水辺に暮らすようになり、5000年の長きにわたって栄えた「どんぐり本位制」に代わり「米本位制」時代となった。

 

 律令時代に入ると米の補助通貨として銅銭が用いられるようになった。

 当初は大陸からの渡来銭であったが天武期に我が国最初の銅銭「富本銭」が鋳造され、以来平安中期まで政府による公用銭が流通する時代となった。

 

 ところが平城京、平安京の造営という国家一大プロジェクトが終わり、かつ封建制への移行もあって経済活動は委縮、時の政権は貨幣鋳造に熱意を失ってしまった。

 しかも大陸ではそのころ宋が滅び元の時代となっていたが、この征服王朝は貨幣を嫌い通貨は紙幣のみとする命令を下したものだから市場価値を失った宋銭が大量に日本に渡って来た。

 以降江戸期に至るまで我が国では中央政府による通貨の発行は行われず、2000年以上の歴史を誇る米本位制が完全に姿を消すのは日銀の設立までかかったのである。

 

(地下の巨大金庫室にて 「こういうことしたがるヤツいるんだよな~」と思ったら目クソのAさんだった)

 

 

(そのころ鼻クソは・・・)

 

 見学はツアーガイドの説明つきでおよそ1時間。

 総裁室(上空写真の左下隅2階)や巨大金庫室の入り口にある分厚い扉などが撮影NGなのが残念だが、タダなんだからよしとしよう。

 

(1階営業フロア 天井がガラス張りのドーム(上空写真の丸い部分)になった巨大空間)

 

 4時過ぎに見学を終えた二人は記憶が薄れる前に反省会をしなくてはならない。

 この時間では近くの「玉ゐ」、「天福分(麻婆豆腐の名店)」なんかも開いてないことから2時からやってる中野の名店「第二力酒蔵」へ。

  

(佇まいは昔のまま)

 

 ところが「最近不味くなった」と聞いてはいたが、もはや名店とは言い難い惨状である。どうやら経営母体が代わったらしい。

 ウンザリこいた二人は席の温まる暇もあるものかは、Aさん行きつけの西荻の焼き鳥屋「よね田」へ。少しずつ家に近づいていく習性はさすがどちらも筋金入りの呑兵衛である。

 

(十分反省した二人)

 

「古い建物のあの匂い・・・」

「カビ臭いわけではなくて、なんだか懐かしい匂いでしたね~」

「さっきから考えてたんだけど、昔のバスや電車の匂いに似てますね」

「あ~、床が黒くて転ぶと大変でしたね」

 

(「よね田」名物つくね焼き 串4本で支えているという巨大さ お一人様一本だけ、という限定品を二人で二本頼んだがとても食いきれず隣のお客さんに一本進呈した)

 

(ほぐすと訳の分からない物体になっちゃった)

 

 大人の社会科見学、次の企画が楽しみである。