(甲府共立病院 1955年医師一人の「甲府診療所」としてスタート 1960年に病院となり現在は病床数283床、医師数51名の大病院)
病院にはICUで1泊、一般病棟で2泊の都合3泊4日滞在した。
寝たきりを強いられるICUの退屈さといったら筆舌に尽くしがたいものがある。なんせこっちは心臓に問題があるとはいえ、心身とも元気そのもの。
退屈とともに辛かったのがトイレである。
体中にからみつくチューブやら電極やらを取り外し、トイレに行こうとすると呼び止められた。
「ちょっと、どこ行くんですか」
「・・・この子の七つのお祝いに」
「ダメ。お小水はここでしてもらいます」
看護師さんは次の中から好きな方法を選べ、という。
・ シビンで看護師さんにとってもらう(=推奨方式)
・ 尿道カテーテルを突き刺し(ヒエ~)、常時垂れ流す
・ オムツにお漏らしする
プライドをとことん捨てきるか、痛みをこらえるか、はたまた子供の頃のおねしょの悪夢を呼び覚ますか、究極の三択。
「自力でやりますのでシビンを貸してください」
「寝たままでするのは難しいよ。私達は慣れてるからね。さあ、さあ、さあさあさあさあ」
豆しぼりを粋に締めあげた看護師さんはイナセにシビンを振り回しながら迫って来た(←あくまで心象風景ですから)。
シモの世話を他人サマにしてもらうようになったらおしまいだ。
人が見てると絶対に出ないですから、膀胱破裂したらどうするの、病院の管理責任問われるね、知らないよ~、と散々脅して席を外してもらい、その隙に立ちあがってすました。
オシッコでもこの騒ぎだからこれが大きい方だとどんなことになるのだろう。想像するだけでおぞましい。
私はICU生活がこの先何日続くことになろうが禁便(断便、というほうが適切か)する決意を固めた。
タレントの松本明子さんは若い頃便秘に悩まされ1か月位出ないことがしばしばあったというから、数日なら大したことはない。ちなみに便秘のギネス記録は102日。上には上がある。
尾籠な話が続いて恐縮だが、自殺であれ他殺であれ、事故であれ、人は悶死する寸前に100%脱糞するそうだ。どうも断末魔の恐怖と便意とは密接な関連があるらしい。
病院で借りた本に載っていた「マナスル登頂記(1957加藤喜一郎著)」によると、頂上まであとわずかに迫りながら失敗に終わった第一次遠征(1953年)の際、疲労困憊して死線をさまよった加藤氏は標高7500mの地点で突如便意に襲われ、決死の覚悟でキジ撃ちをしたという。
(世界第8位の高峰マナスル(標高8163m) 加藤氏登頂の57年後「イッテQ」の企画でイモトアヤコが登頂した)
徳川家康公の逸話も有名である。
1573年(元亀3年)徳川軍と武田信玄公率いる武田騎馬軍団とは遠州三方ヶ原で激突、惨敗を喫して命からがら居城浜松城に逃げ帰った家康は恐怖のあまり脱糞していたというのだ。
「クサっ。殿、おそれながらクソを漏らしておわしますぞ。さぞ怖かったのでしょうな」
「たわけが。これは焼き味噌よ。焼き味噌が草摺からもれ出たのよ」
そういって家康は股肱の忠臣本多作左衛門の頭をしたたかに殴りつけたそうな。
(「徳川家康公三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館蔵)敗戦の屈辱を忘れぬよう帰城後ただちに己の負け姿を描かせたものだという とするとこの時家康は粗相していたことになる)
神君家康公と同列に論じるのも面はゆいが、私も救急車を待っている時に便意を催した。今にして思えばあわててトイレに行ったあの時が「死」が一番近くにいた瞬間なのだろう。
「あの、ストッパありませんか」
「なに、それ」
「満員電車のサラリーマンが粗相を防ぐために常備しているクソ止め薬です」
「へええ、そんなもんがあるんだ」
看護師さんは異星人を見るように私を一瞥し、黙殺した。
翌日に一般病棟に移され私の苦痛は雲散霧消、禁便の誓い(断便、かなあ)もわずか一日で瓦解した。
監視が緩んだのを幸い、私はさっそく院内探検に繰り出した。
探検の桎梏になる点滴はジョイントを外して置き去りに。この際外した管の先っちょを点滴架の一番上にくくりつけるのが忘れてならないポイントである。そうしないと液が床にこぼれて後々糾問されることになりかねない。
2階に売店を見つけ、そこで味わった久しぶりのコーヒーの旨いこと。
コーヒーを飲みながらふと傍らを見ると「共立文庫(だったかな)」という図書コーナーがあった。患者さんが持ち込んで退院の時に置いていった本を並べているのだろう。
トイレに続いて「退屈」からも解放されることが決まった瞬間である。