杉並の名刹観泉寺で紅葉を愛でる | 八ヶ岳ゆるふわ日記

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八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

 

(観泉寺三門)

 

 先週老母が体調を崩し、荻窪病院に緊急入院した。幸い大事には至らなかったのだが、入院により介護老人保健施設はいったん退所扱いとなった(制度上そういう扱いになる)ため、退院後ただちに山梨の老人ホームに入所することにした。

 そんなドタバタの中、見舞いのついでに荻窪病院の向かいにある観泉寺(杉並区今川2丁目)に行ってみた。ここは桶狭間の合戦で横死した今川義元の子孫の菩提寺である。

 

 

(三門から本堂へ 明和元年(1764)に建立された本堂は杉並区最古の木造建築物である)

 

 駿河、遠江、三河三か国の太守今川義元の嫡子氏真(1538~1615)は、桶狭間合戦で義元が横死したため、22歳で今川家の家督を継いだ。

 氏真は合戦や政は大嫌いで蹴鞠や和歌を好む怠け者だったらしい。この辺の氏真の心情は同じ怠け者の私にはよくわかる。

 しがない庶民の子である私は、

怠けの大輪を咲かすにはほんの少しは努力が必要」という真理に幼くして気づいたが、今川家の惣領である氏真はどこまで怠けても屋台骨がなかなか傾かなかったのが気の毒であった。

 やがて氏真は父の遺領駿河を武田信玄に、さらに遠江を三河国主となった徳川家康に奪われ、流浪の徒として嫁の実家北条家に寄寓することになった。その後小田原でも居場所を失い、かつて今川家に従属していた徳川家康を頼った。

 流転を繰り返した氏真であったが、江戸幕府開闢後は名門吉良氏、一色氏とともに徳川高家(こうけ 儀典を司る役職)として遇され、この地に知行を得ることになった。おそらく風流人の氏真は人質時代の家康に恨みを買うような酷い仕打ちをしなかったのだろう。

 家康と前後して逝去した氏真の菩提は、ここ観泉寺に弔われている。

 

(今川家累代の墓 どれが氏真の墓かは説明がない)

 

 武勇にも政略にも欠けた氏真であったが、戦乱の世を生き長らえ、その名は現在でも「杉並区今川」として残っているのだから大したものだ。

 ちなみに「徳川四天王」と称された酒井、榊原、本多(平八郎忠勝の方)、井伊の名はわずかに千代田区紀尾井町に井伊家の「井」が残るのみである。ことによると徳川譜代に由来する地名は明治政府が維新後に全て改めたのかもしれない。なお、新宿区大久保の地名は「大きな窪地」に由来するもので大久保忠世、忠隣など大久保一族とは無関係である。

 

 氏真と同じような例に織田有楽斎(1548~1621)がいる。織田信長の弟である有楽斎は本能寺の変の後信長の次男信雄に仕えたが、小田原合戦後信雄が豊臣秀吉に所領を召し上げられると織田政権の簒奪者である秀吉の直臣(相伴衆)となった。

 その後大坂夏の陣で豊臣家を見捨てて大阪城を退去、徳川家康に仕えて江戸の地に屋敷を拝領する。それが有楽町の由来である。

 

(氏真(左)と有楽斎 どちらも文弱な感じが漂う)

 

 氏真も有楽斎もこれといった事績はないが、後世に名を残した。

 ちょっとした挫折から立ち直れない若者が増えつつある中、「人生至るところ青山あり」を地で行くような

二人の生き様にはもっとスポットライトを当ててもいいのではないだろうか。

 

 令和の怠け者は、境内の紅葉を眺めながらそんなことを考えた。

 

 氏真の辞世の歌

 なかなかに 世をも人をも うらむまじ

 時に合わぬを 身の咎にして