八ヶ岳南麓大泉の住所表示は何故カオスなのか | 八ヶ岳ゆるふわ日記

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八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

(サンメドウズ清里「清里テラス」麓には無料ドッグランも)

 

 我が家のお気に入りスポットである「サンメドウズ清里」で7月に「ハイライフ八ヶ岳」というコンサートが開かれるのだが、そのチラシを見ていてオッたまげた。

 なんと住所が「大泉町西井出8240-1」なのだ。

 この「8240-1」というのはまきば公園やパノラマの湯を含む広大なエリアなのだが、まさかサンメドウズまで同一の地番だとは思わなかった。

 地図で見ると「西井出」は赤岳から中央高速近辺まで南北に大きく広がっている。ちなみに「東井出」もあるが、こちらは隣接して高根町となる。「トラットリアタダリコ」や「qui CUCINNA」などは東井出だ。

 

(赤線内が西井出 グーグルマップによると大泉町63平方キロの過半が西井出の模様)

 

 「西井出8240」は我が家も属する地番であるが、調べてみると広大な西井出のそのまた多くの地域が「8240」なのである。

 サンメドウズから川俣川東沢沿いに進み、「桐朋学園八ヶ岳高原寮」というのが8240-2。そのまま高根町と接しながらコンプレ堂辺りを南下して若林交差点までが東側の境界である。西側はというと、仙人小屋(西井出6924)の脇から藤あや子さんの店(西井出7140)を通って洋菓子マロンの辺りまで。

 

 これほど広大で、しかも地番が無秩序にふられていては、住所の役割はほとんど果たせないだろう。

 

(赤線が西井出、黄色線が「8240」地区)

 

 いったいこの番地付与の無秩序はどこから生じたのか。思い余って(というほどでもないが)北杜市役所に問い合わせてみると、

「住所表示の管轄は法務省地方法務局だからそっちに聞け」とのこと。

 この木っ端役人めがお得意のたらい回しか~、と一瞬血圧が急上昇したが、先日の食べ残し持ち帰り騒動(というほどのものでもないが)のこともあり、ここは冷静に調べてみることにした。

 

 我が国の住所は、1962年に施行された「住居表示法」により市町村が定めることとなっている(なん丁目なん番、というやつ)が、これは強制ではなくあくまで市町村の判断で実施されるもので、実施しない場合は土地登記に基づく地番表示(←法務省管轄)が住所として用いられることになる。

 つまり北杜市は土地登記簿の地番が住所になっているわけだ。市役所の方、木っ端役人扱いしてど~もすみません。

 

 さっそく法務省甲府地方法務局韮崎出張所へ電話した。

 電話口の担当者は午後イチから面倒な電話を受けることになった己が不運を嘆いている様子は微塵も見せず、「きちんと話すと明治時代に遡ることになっちゃうからね、あくまで概念として聞いてください」

と前置きして概要を説明してくれた。

 

 私の理解に推論を混ぜると、どうやらこういうことらしい。

・ 我が国の土地登記制度は1887年(明治20年)の登記法施行に始まるが、その後1899年の土地登記法施行、1946年の農地改革による登記制度改正などの変遷を経て今日に至っている。

・ かつての大泉村においても、登記制度開始の時点で西井出1番、2番と土地に番号をふっていった(ネットで確認した限りでは現在146番から9617番までが飛び飛びに存在する)。

・ 広大な面積をほこる「西井出8240」はすべて公有地であった(あくまで推測だが公営施設である「パノラマの湯」が8240-1であることからおそらく事実である)。

 そこに桐朋学園が土地を買収して寮を建てることになった際、従来の土地を8240-1、分筆された学園の土地に8240-2と枝番を付与した(これも推測だが1960年の土地表示制度改正の時から枝番表記方式が導入されたのではないか。桐朋学園八ヶ岳寮の建設時期が知りたいところだが残念ながら不明)。

・ その後の別荘ブームもあり、8240は数えきれないほど分筆され、都度枝番をふったものだから現在のカオスになってしまった(ネットでは8240-9491まであるから理屈のうえではこれまでに9490回の分筆が行われた勘定になる)。

 

 ふ~む、枝番は「土地の分筆順」ということだったのか。

 

 「西井出1番」は今でも存在するのか?

 「8240-3」、「4」、「5」はどこにあるのだろう(「6」は確認済)?

 「8240」の分筆があと500回行われた時、枝番は1万番台に突入するのか?

 

 聞きたいことはまだまだあるが、公務の邪魔をするわけにもいかない。法務局の担当の方、ありがとうございました。