佃煮と甲斐国の数奇な縁 | 八ヶ岳ゆるふわ日記

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八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

(佃源田中屋 あさり佃煮)

 

 我が家のお近くに別荘のあるブログ友のUさんから、「佃源田中屋」の佃煮をお土産に頂戴した。

 佃源田中屋は天保14年(1843)創業、天安(天保8年)、丸久(安政6年)とともに佃島佃煮の老舗中の老舗である。

 

 (佃島の本店意外とショボい 「歴史散歩ときどきお酒」様のブログから拝借

 

 「佃煮」はなぜ佃煮というのか。「佃島でこさえた煮しめ」だからである。

 では「佃島」はなぜ佃島というのか。それは摂津国佃村からこの地に移住した漁民が故郷を偲んで命名したからである。

 それではこの人々は何故移り住んだのか。その縁起は400年以上前に遡る。

 本能寺の変(1582年)の際、信長の招きでたまたま堺遊覧に来ていた徳川家康公は、明智光秀勢に取り囲まれ現地で進退窮まった。その窮状を救い堺から家康をひそかに脱出させたのが佃村の漁民たちであった。

 その行賞として家康は江戸入府にあたって彼らを江戸に招請、漁業権を与えたのが佃島の、そして佃煮の発祥である(幕府との権利義務関係が最終確定したのは家光公治世1649年のこと)。

 

 危機一髪窮地を脱した徳川家康はその後天下泰平の礎を築き、東照大権現として祀られた。

 一方大きく運命が変わったのが家康に同行していた穴山信君(のぶただ 梅雪と号す)であった。穴山一族は、かつて甲斐国守護となったこともある武田家連枝である(その当時の状況は → ここ )。

 

 織田信長の甲斐攻めにあたり、信君は自らが武田宗家を継ぎ甲斐一国の国主となることを条件に家康に内応した。当時の武田家臣団は庶子でしかもいったんは諏訪家を継いだ勝頼公を主君と認める気にならなかったらしい。

 

 武田家滅亡の後信君は家康と共に堺にあって本能寺の変に遭遇するが、何故か家康と別行動をとった挙句堺近郊で横死してしまう。

 あくまで推測だが、甲斐国主の約束は反故にされたうえ(甲斐は信長黒母衣衆筆頭河尻秀隆に与えられた)、同じく内応した小山田信茂が主君を裏切った卑怯者として一族もろとも誅殺されたのを見て、明日は我が身と疑心暗鬼にかられていたのであろう。

 信君の死後武田家名跡は嫡子信治が継いだものの、その信治も天正15年(1587)に死去、ここに平安期から続く名門甲斐武田家は断絶し、以降風林火山の旌旗が翻ることは二度となかった。

 

 それから400年余り。

 佃煮は今でも人々に愛され続けているが、武田家の栄光は酒の名前やヴァンフォーレ甲府のエンブレムにわずかにその名残をとどめるだけとなってしまった(山梨県民の武田愛の記事は → ここ )。

 

 佃煮を肴にほろほろと飲む。

 歴史に if は禁物というが、信君が家康と行動を共にしていたらどうなっていたのだろう。

 ほろほろと飲むほどに夢想もほろほろと湧いてくる。

 

  

(七賢「風凛美山」とあさり佃煮 これはいけます 特別ゲストは「どんぐり」のキムチ)