私はマーリン・キャロザースさんという牧師様(すでに亡くなられた方です)の本に嵌まり、先日「神の秘密兵器」という本をアマゾンで買いました。
これは電子書籍ではありませんので、受け取りまでに1週間近くかかりました。
今までのブログで書きましたが、マーリンさんの讚美の話に興味を持っています。
それでマーリンさんの本を頼んだのに、受け取りまでの時間が長すぎ、送料もっとかかっていいから配送方法変えて欲しい、なんて不満を感じてしまいました。
マーリンさんなら「届くまでに時間がかかるのも完璧な神の計画のうちなのだから、讚美して待ちましょう」とおっしゃるはずなのに。
昨日も姉のことで時間がかかって疲れた話を書きましたが、自分の中で疑問も沸きました。
自分に限りませんが、なぜ人は苛々したり、愚痴を言いたくなったり、批判したりするのでしょうか。
聖人ではないので、大きな困難に見舞われれば、そういう反応はもっともなことでしょう。
しかし昨日について考えたら、「自費ヘルパーのことで3時間の時間を費やした」というだけです。疲れたとはいえ、他にいろいろやらなきゃいけないことがあったわけでもありません。
確かにいろんな問題を抱えて日々エネルギー不足ではあるのですが、疲れた、やだ、もう泣きたいと愚痴まで書いたのはなぜなのか、と疑問に思います。
これは、愚痴や批判という行為そのものを批判しているわけではありません。私自身が散々愚痴を書いて皆様に受け入れていただいてきたのですから。
ただ、たとえば姉のために3時間を費やしたけど、どうせたいしてやることがなかった時間を姉のために使えて有意義だった、というプラスの感情が湧かないのが不思議でしかたないのです。
それで思ったのです。人間はたんにわがままと言うわけではなく、愚痴や批判、不平を感じること、言うことに快感を覚えるのではないか、と。
だからいろいろ恵まれていたとしても無いものを嘆いたり不満に感じて不平を言ったりするのか、と。
一見、そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、人間は感謝の気持ちを抱くより、不満を感じる方が楽しいのかもしれません。
人生が嬉しいことより辛いことのほうが多くて感謝より愚痴が多いというより、愚痴や批判が快感になってるだけの話なのかもしれません。
これがクリスチャンのいう悪霊の仕業、誘惑なのかもしれませんね。
愚痴・批判中毒にして、感謝や讚美をさせず神様から人間を遠ざけようとしているのでは。
本来、感謝や達成感、慈悲、思いやりという感情の方が善いわけで、それを感じる事ができる状況を、疲れた、自己犠牲、愚痴りたいという負の感情に支配されてしまうなんて、やっぱり悪霊にまんまと毒されているのでしょうね。
と言ってるそばから、また今不満に思ってしまいました。
実は姉のコミュニケーションツールの申請書に不備があったと先日区役所から連絡がありました。主治医に書いてもらう書類は、「主治医に姉がコミュニケーションツールを使ってるところを見てもらって書いてもらわなければならない」とのことです。
でもわざわざ大きい病院の忙しい先生が、患者宅を訪問して使ってるところを見て申請書書く、なんてありえません。
なので、今日またフランスベッドさんがデモ機を姉宅に持っていき、使ってるところを動画撮影して医師にメールで送って見てもらう、となりました。
主治医ならそんな動画みなくても、コミュニケーションツールが必要なのはよくわかっていらっしゃいます。
しかも、申請の件で何度も区役所の人とやりとりしてるので、できれば早く言っていただければ、いままでフランスベッドさんが2回もデモ機を持ってきて、使ってる様子を写真撮影もしています。そのときに動画も撮ってれば効率的だったのに、と思います。
それとも、医師に書いてもらう書類を私がしっかり中身を確認して、これは患者がツール使ってるところを見ながら医師が書くのではないか、と気づかなければいけなかったのでしょうか。
いやいや、神様が意味あってすべてご計画されているから、ツールの支給まで不必要な時間を要しているように感じても、これがベストなのですよね。
そう信じて讚美します。