自分は馬鹿だし、価値がないとわかるようになってきてから、正論を振りかざすことがなくなった。

    今思えば、正論とされることばっかり言ってたな。

    正論というだけあって、正しいとされることではあるけど、正論ばっかり言ってたときって、結局は他者の気持ちにまったく寄り添えてなかった。


     自分に自信なかったはずだけど、正論ばっかり言ってたわけだから、結局は自分の考えに自信があったわけだよね 。

     ネットニュースで、高校生がカンニングをしてそれがバレて、学校側に卑怯な行いだと叱責されて自殺してしまい、ご両親が学校側を訴えた、という話をみた。

     ネット民の意見の多くが「カンニングは卑怯だし、学校側の指導は正しい、自殺までしてしまうのは親にこそ問題があると思う」というものだった。

      これ、以前の私がいかにも言いそう。


     今の私なら「ぶっちゃけカンニングなんてたいしたことじゃない、まあ試験て競争だからルールに従わないとならないのは確かだけど、まあやらざるを得なかったんだよね。
倫理政経なんて受験に役立たないからそんな科目に時間使うよりそれはカンニングするとして、他の教科の勉強に時間使いたいからね。   それなのにみつかってしまって卑怯もの呼ばわりされて気の毒、しかも親子関係わからないのに自殺は親のせいにされて親もかわいそう」としか思わない。

      そういえば、主人も大学時代、カンニングしてたな。出題内容は事前に知らされてて、作った回答を紙に書いて縮小コピーして。しかも、友達にもそれコピーしてあげてたし。


     そのときの私は、試験は正々堂々と受けたいとかいってカンニングしなかたったけど。


      まあそうやって正論ばっかり言って生きていられたら、幸せかもしれないね。


     私は自分に自信がなかったから勉強したり、一部上場企業に就職したり、見かけにこだわったり(元々少食だけど体系に気を付けたり、吹き出物1つできただけでこの世の終わりのように騒いでた)、資格とったりしてきたつもりだった。

     そうやって何かを得る度に、こういうもので武装しないと私には価値がないと思っていたわけで。


     でも、何を得ようが失おうが、一貫して私は無価値だったとはやく気づけばよかった。何かを得れば無価値じゃなくなると勘違いしてたんだよね。

 
     努力して何かを得ると、努力しない人間はだめよね、なんて自信ないわりに他人を見下していたと思う。     

     好きなだけ本能のままに食べてる人をみると、自分を律することができない人、なんて呆れたりして。


       自信がないのに傲慢でもあったわけだね。



       なんにしろ、魂のシナリオでこの人生が終わるまで、無価値なりに細々と生きていくしかない。