日本史(P42~P54)
天武・持統天皇時代の文化を白鳳文化と言う。
寺では官立の大官大寺・薬師寺が作られ、
美術では興福寺武仏頭、法隆寺金堂壁画、
高松塚古墳壁画などが造られた。
また白村江の戦いのち
百済から日本に渡って来た教養人の影響で
漢詩が盛んになった。
大津皇子が有名。
長歌・短歌も五音・七音の型が定まり、
柿本人麻呂・額田王がでた。
701年の文武天皇の時、刑部親王・藤原不比等らによって
大宝律令が完成。
刑法にあたる律、
行政組織や人民の租税・労役に関する令
による統治が始まった。
律令政治のもと、
祭りを司ったのが神祇官、
政りを司ったのが太政官で、
太政官のもとには八省が置かれた。
全国は機内・七道に分かれ、
その下に国・郡・里、
それぞれに国司・郡司・里長がおかれた。
また、京には左右京職、難波には摂津職、
九州には大宰府が置かれた。
彼らは位階に応じた官職を担当し(官位相当の制)、
位階・官職によって税などが決まった。
上級役人ほど特権があり、
彼らは財を蓄えて貴族となっていった。
刑罰は五刑があったが、中でも八虐の罰は重かった。
土地制度としては班田収授法が採用され、
6年毎に作られた戸籍をもとに、農民には口分田が与えられた。
死後口分田は国家に返され、
土地支配が国家から豪族に流れるのを防いだ。
農民は口分田からの収穫の3%ほどを納める租、
絹・布・糸などを納める調・庸、
土木などの雑用を行う雑徭を課せられた。
他にも、凶作に備えて粟を備える義倉、
春に国家から借りた稲を、秋に利息と共に返す出挙の制度や、
衛司、防人として京や九州北部を警備する兵役があった。
人々は良民・賎民にわけられ、賎民には更に五色の賎があった。
こうした制度により、富が天皇・貴族に集中したため、
元明天皇の時、藤原京よれい広大な平城京が作られた。
唐の長安がモデル。
ここからが奈良時代。
平城京の都市は規則正しく区画され、
道路には16kmごとに駅家が設けられ、市司が管理した。
ここは役人が利用し、糸や布が交換された。
政府は和同開珎を作り、畜銭叙位令を発したが、
物品交換がメインで京・畿内の他ではあまり流通しなかった。
政府は充実した国力により、蝦夷の討伐にも乗り出した。
斉明天皇の時には阿倍比羅夫が秋田の蝦夷を服属させ、
8世紀になると出羽国、秋田城、多賀城を築き
東北支配を固めていった。
隼人の住む九州南部には大隅国がおかれ、
種子島・屋久島なども次第に服属していった。
皇族と貴族の勢力はこの間均衡が保たれるが、
藤原氏が次第に勢力を拡大していく。
藤原不比等とその4子は藤原氏の発展に努め、
729年には皇族の長屋王を自殺させ、
不比等の娘光明子を聖武天皇の皇后とさせる。
しかし疫病のため、4子は相次いで亡くなる。
そこで政権を握るのが橘諸兄で、
唐から帰国した吉備真備らが勢いをふるう。
740年には吉備真備らの追放を求めて、
藤原広嗣が乱をおこすが、
平定後も飢饉などの影響があり、朝廷の動揺は収まらない。
仏教を信仰していた聖武天皇は鎮護国家思想により、
国分寺建立の詔を公布。
さらに743年には大仏建立の詔を出し、
752年孝謙天皇の時、東大寺の大仏が完成した。
聖武天皇退位後は光明子の甥にあたる藤原仲麻呂が権勢をふるう。
橘奈良麻呂を倒し、淳仁天皇から恵美押勝の名を賜る。
けれども、孝謙上皇に信任された道鏡がでてくると、
兵をあげるが敗死する。
孝謙上皇は再び即位し、称徳天皇となる。
聖武天皇と光明皇后の間には称徳天皇しか子がいなかったので、
皇位継承を巡っては争いが続くが、
天智天皇の孫にあたる光仁天皇がでて、律令国家の再建に努める。
朝廷が動揺する一方で、農民の生活は困窮していた。
飢饉の影響で口分田を捨て、浮浪・逃亡する者が現れる。
彼らは有力豪族らのもとに身をよせた。
当時政府は口分田不足を解消するため、
百万町歩の開墾計画を立て、723年には三世一身法を定めた。
更に743年には墾田永年私財法を定め、
開墾地の永久所有を認めていた。
有力豪族らはこの制度をもとに、農民を使用し勢力を拡大。
特に東大寺などの大寺院は広大な土地を所有し開墾していく。
これが初期荘園の始まり。
寺では官立の大官大寺・薬師寺が作られ、
美術では興福寺武仏頭、法隆寺金堂壁画、
高松塚古墳壁画などが造られた。
また白村江の戦いのち
百済から日本に渡って来た教養人の影響で
漢詩が盛んになった。
大津皇子が有名。
長歌・短歌も五音・七音の型が定まり、
柿本人麻呂・額田王がでた。
701年の文武天皇の時、刑部親王・藤原不比等らによって
大宝律令が完成。
刑法にあたる律、
行政組織や人民の租税・労役に関する令
による統治が始まった。
律令政治のもと、
祭りを司ったのが神祇官、
政りを司ったのが太政官で、
太政官のもとには八省が置かれた。
全国は機内・七道に分かれ、
その下に国・郡・里、
それぞれに国司・郡司・里長がおかれた。
また、京には左右京職、難波には摂津職、
九州には大宰府が置かれた。
彼らは位階に応じた官職を担当し(官位相当の制)、
位階・官職によって税などが決まった。
上級役人ほど特権があり、
彼らは財を蓄えて貴族となっていった。
刑罰は五刑があったが、中でも八虐の罰は重かった。
土地制度としては班田収授法が採用され、
6年毎に作られた戸籍をもとに、農民には口分田が与えられた。
死後口分田は国家に返され、
土地支配が国家から豪族に流れるのを防いだ。
農民は口分田からの収穫の3%ほどを納める租、
絹・布・糸などを納める調・庸、
土木などの雑用を行う雑徭を課せられた。
他にも、凶作に備えて粟を備える義倉、
春に国家から借りた稲を、秋に利息と共に返す出挙の制度や、
衛司、防人として京や九州北部を警備する兵役があった。
人々は良民・賎民にわけられ、賎民には更に五色の賎があった。
こうした制度により、富が天皇・貴族に集中したため、
元明天皇の時、藤原京よれい広大な平城京が作られた。
唐の長安がモデル。
ここからが奈良時代。
平城京の都市は規則正しく区画され、
道路には16kmごとに駅家が設けられ、市司が管理した。
ここは役人が利用し、糸や布が交換された。
政府は和同開珎を作り、畜銭叙位令を発したが、
物品交換がメインで京・畿内の他ではあまり流通しなかった。
政府は充実した国力により、蝦夷の討伐にも乗り出した。
斉明天皇の時には阿倍比羅夫が秋田の蝦夷を服属させ、
8世紀になると出羽国、秋田城、多賀城を築き
東北支配を固めていった。
隼人の住む九州南部には大隅国がおかれ、
種子島・屋久島なども次第に服属していった。
皇族と貴族の勢力はこの間均衡が保たれるが、
藤原氏が次第に勢力を拡大していく。
藤原不比等とその4子は藤原氏の発展に努め、
729年には皇族の長屋王を自殺させ、
不比等の娘光明子を聖武天皇の皇后とさせる。
しかし疫病のため、4子は相次いで亡くなる。
そこで政権を握るのが橘諸兄で、
唐から帰国した吉備真備らが勢いをふるう。
740年には吉備真備らの追放を求めて、
藤原広嗣が乱をおこすが、
平定後も飢饉などの影響があり、朝廷の動揺は収まらない。
仏教を信仰していた聖武天皇は鎮護国家思想により、
国分寺建立の詔を公布。
さらに743年には大仏建立の詔を出し、
752年孝謙天皇の時、東大寺の大仏が完成した。
聖武天皇退位後は光明子の甥にあたる藤原仲麻呂が権勢をふるう。
橘奈良麻呂を倒し、淳仁天皇から恵美押勝の名を賜る。
けれども、孝謙上皇に信任された道鏡がでてくると、
兵をあげるが敗死する。
孝謙上皇は再び即位し、称徳天皇となる。
聖武天皇と光明皇后の間には称徳天皇しか子がいなかったので、
皇位継承を巡っては争いが続くが、
天智天皇の孫にあたる光仁天皇がでて、律令国家の再建に努める。
朝廷が動揺する一方で、農民の生活は困窮していた。
飢饉の影響で口分田を捨て、浮浪・逃亡する者が現れる。
彼らは有力豪族らのもとに身をよせた。
当時政府は口分田不足を解消するため、
百万町歩の開墾計画を立て、723年には三世一身法を定めた。
更に743年には墾田永年私財法を定め、
開墾地の永久所有を認めていた。
有力豪族らはこの制度をもとに、農民を使用し勢力を拡大。
特に東大寺などの大寺院は広大な土地を所有し開墾していく。
これが初期荘園の始まり。



