不思議な出会い光枝 -9ページ目

不思議な出会い光枝

人生とは何か?楽しく老後を暮らすためにはどうしたらよいのか?など色々書いて行こうと思います。

おはようございます冴神剣です。皆さんは本当の意味でお金とは何だと思いますか?お金があればどんなモノも手に入れる事が出来ると信じている人がいる。 お金の為にどんな犠牲を払っても手に入れようとする人がいる。そしてその結果 大金を手に入れてますます自信を持って世の中に大きい声で世の中はお金が最も 価値があると信じて疑わなくなってしまうのです。 高学歴のエリートで社会的に認知されているカリスマ的なビジネスの成功者や経営者が お金の評価をTVなどで良く見かけませんか。 つまり現代社会は自然を破壊して人類の住む場所を無くして相手を思いやる優しさ の心まで破壊して、お互いが憎しみ、正義の大義名分を振りかざして殺し合いをして いる救いようのない文明となってしまったと言いようがないのです。 一生懸命勉強して他人より学業の成績がよく人より良い暮らしそして自分は頭が 良いからお金を多く稼ぐ事が出来ると間違った考え方をしているのです。 私は残念ながらその方達は哀れに思うのです。お金の価値やお金の本当の姿を知らないからなのだだろうかと思うと心が痛くなります。 心ある生き物と心のないモノの違いに気付いてないからお金に価値や期待を しているのだと思うのです。心がある心がないと言う事の意味すら気付いていない のしょうね。世の中の科学万能学歴社会そして現代は最も低レベルの社会 なのです。 つまりお金教祖が存在しているのです。しかし、学校や会社は何をして何を教えて いるのか又宗教や家庭では何を教えているのかさえ誰も理解していないのです この地球上で最も危険なモノとしてはお金なのです。 その危険性は原爆等とは比べものになりません。原爆は目に見えて危険と認識出来ても お金の危険は認識が出来ないからです。 知らず知らずにお金に心が引かれて全く気づかないうちに徹底的にお金に支配され 心を破壊するのですそしてお金が無くては生きていけない所まで人間を追いつめ ているのです。 つまりお金は人間が作ったモノです神が作ったモノではないのですしかし神以上に 人の心を動かすのです。 お金の為に自然を破壊して「石油開発」。お金の為に人を殺す「強盗」。お金の為に 戦争して「資源獲得」。お金の為に自分の子供まで殺す「保険金殺人」 その他歴史的に多くの事件が起きています。 この文明社会はあまりにも物質に支配されお金の奴隷に成り下がっているのです。 本当の意味でお金の大切さ、モノの大切さ、自然の大切さ、心の大切さ、命の大切さを 今こそ気付かなければならない時代だと皆さん思いませんか。

おはようございます冴神剣です。皆さん生きてる事が辛いですか?私みたいな仕事をしていると、必然的に生きる事に疲れている状態にある人からの相談が多いです。もちろんその原因はそれぞれ皆さん違いますが共通点としましてどの方も非常に我慢強いと言えます。それはある意味、ストレスに強いと言う事でもあります。何故なら我慢する事は思い通りにならない事を抑えたり又、自分の本意を抑えて他者に合わせる訳ですから考えただけでも相当のストレスを抱えながら生きて来た人と言えるのではないかと思います。しかし同じように我慢強く生きていても人生を楽しんでいる人達もいます。この違いは何なのかと考えた時私が思うに、生きる事に疲れてしまった人は自分がしたくない事をあまりに我慢し過ぎて来たのではないかと言う事です。それは親の願望だったりあるいは他者からの評価が得られ易い事だったり又は劣等感や怒りを動機にして選んだ事を頑張り続けて来たのかも知れません。そしてそれらを満たす為に我慢して抑えて来たものは他ならぬ本当の自分がやりたい事だった訳ですからいくら我慢して頑張っても肝心の自分の心は一向に満たされない事になります。それゆえに生きるエネルギーがどんどん消耗して行ってしまう訳です。しかしもしその我慢強さを自分が本当にやりたい事の為に活かす事が出来たらどんな事でも実現可能にする能力がある人達だと皆さん思いませんか。またその為の我慢であるならば皆さん自分のやりたい事を叶える希望の光に向かって歩んで下さい。頑張った分だけ心も満たされると感じるはずです。生きる事に疲れてしまった時は体も心も弱っている時なのです。その弱った状態で先の事を考えても心配や不安が多く何かを選択をするにはあまり良い時だとは言えませんよね。それゆえに思い切って一度ゆっくり休む事も必要ではないかと思います。そして出来ればそんな時だからこそ自分とじっくり向き合い今まで抑え込んできた感情を開放すると良いのではないかと思います。そして自分がしたくない我慢と自分のやりたい事の為にする我慢を見極める事が肝心なのだと思います。幸せと言うのは決して周りの人に決めてもらうものではなく自分の心が感じるものなのですから。

おはようございます冴神剣です。皆さんは真剣に家族とは何だろうと悩まれた事はありますか?長い人生の中では、家庭を維持し、家族と折り合いをつけて生きて良くのは、一人でいるよりもかえって困難に思えるのが今の時代だと私は思います。無骨に言えば「家族=不自由なもの」と感じる事もあるかもしれません。 結婚したては楽しい事も多いけれど、生活様式や考え方の違いで苦しむ事も今の社会では少なくありません。実際に子供が出来れば、180度転換の生活を送る事になってしまうのもその一つではないかと私は考えます。大きくなれば、一次反抗期に二次反抗期と続き親子で涙を流し、苦しむ事もあるでしょう。夫婦にもその影響力は少なからず現れ家族なんてめんどくさい?考えれば面倒な事ばかり。そんな苦しい思いをしてまで家族を持つ事の意味ってなんだろうと考えてしまうのです。皆さんその時に初めて想像と現実の違いを実感し涙するのでしょう。それは、女の気持ちを解ろうとしない、男の気持ちが解らないように、お互いに解らない事だらけ。本当に子供が欲しくて仕方なかったのに、子供が生まれた時、嬉しい気持ちとは裏腹に不安に押しつぶされそうになる気持ちをお互いに実感しているのではありませんか。お互いの不安に押しつぶされお互いを傷付け合い「家族なんてめんどくさいんじゃない?」と言いたくなってしまうのです。そんな心をかき乱す関係が出来てしまうのも確かですが、家族って心のより所でなければいけないと私は思うのです。反抗期の子供が、反抗と言う形で甘えられるのも親くらいですよ皆さん。良い大人になって喧嘩出来るのだって、夫婦だからです。甘えるのも、喧嘩するのも、駄目な所を見せられるのも、家族だからこそであり、親ならば、子供の安全地帯にならなければいけません。無償の愛を受けるのが本来は子供だからです。もちろん、日々の生活は叱ったり、イライラしたり、親であっても感情を抑える事は出来なくて当然なのです。しかし、「こんな事では親として失格?」そんな不安に襲われる事もあるなら考えてみてください。「私は子供の安全地帯になっているかな?」って。そうすれば、自ずと見えなかったラインが見えて来ます。子供が必死で口に出来た学校での嫌な事。どう答えれば良いか解らなかった時、心の中で考えてください「今この子に必要な安全地帯は?」と。そうすれば、今すぐ先生に電話して「どうなっているのか?」と聞く事よりも、子供の声に耳を傾け、一緒に痛みを分かち合ってあげる事がその時一番大切である事が皆さんに解ると思います。安全地帯を見つけた時、子供は初めて「これから自分はどうしたら良いのか」と考える事が出来るのです。その気持ちを導き出してあげる力、次の一歩への足場、背中を押してあげる力それが家族であり、我々大人が子供にしてあげる安全地帯ではないのかと私は思います。良い事があれば、それを真っ先に親に喜んで欲しい、そう考えるのが子供です。その時に喜んであげる事、それが子供の喜びそのものです。良い事も、悪い事も「話して良かった」そう言う気持ちになれるのが、心の安らぎ。それこそが、「自分の場所がある所=家族」なのだと思いませんか。子供にとって一番大切な事は安心出来る環境がある事なのです。夫婦であっても同じように相手が嬉しい事を喜んで、苦しい事を理解する事で癒しあえたら、本当に相手が追いつめられている時、痛みを分かち合えたなら、夫婦がお互いの安らぎの場所、安全地帯になれるのだと思います。その安全地帯を足場に次の一歩へ進んでいけるです。皆さん結婚はゴールなんかじゃないのです。「家族がいるから頑張れる」そんなちっぽけな幸せが、人生の最大の目的になった時、幸せになれるんだよ」と自分の子供にはそう教えたいじゃないですか。泣いていても、笑っていても。家族って良いものなんです。
おはようございます冴神剣です。人は、愛される事から愛する事を学びそして全ては愛から始まるのです。全ては、愛に始まる。 全ては、愛する事から始まる。全ては、愛される事から始まる。つまり全ては、母の胸に抱かれた時から始まっていると言う事です。母の温もりを感じた時から始まり母の愛を感じた所から始まっているのです。人は、生まれるとすぐに、産声を上げ、泣き叫び、母を捜し求めます。人は、母に抱かれる事で、愛される事を知る。愛される事を知り、愛する事を知る。それが、人間が始めて知る愛との出逢いなのです。命・魂との出逢いとは産まれたばかりの愛は、初心(うぶ)なのです。母を抱きしめ、乳を含む事で、人は、生きている事を実感する。そして、子は初めて生きる喜びを知る。そして、母の胸の中で安らかに寝息を立てる。人は、愛される事で自分を知る事が出来る。母の愛を知らぬ者は不幸かも知れません。それ自体が不幸の源になっているからです。愛された事の無い者は、愛する事の意味も知らぬ儘、愛を求めて彷徨(さまよ)い歩く。人を愛する事によって初めて人は、癒(いや)される。それなのに、愛された事の無い者は、愛する術(すべ)すら解らない。人は、不器用に人を愛する。人は、純粋に人を愛する。人は、純情に人を愛する。なぜならば、愛は、人を思いやる情けだからです。人を傷つけるような刺々(とげとげ)しさや鋭さではない。人を包む込むような温かさながあるのです。それは、温もりでもあり、どこか懐かしさなのあるものなのです。出逢いとは、お互いを 愛する事でお互いを再確認する。愛する事から、また、新たな自分を知る。愛する事から、また、新たな人生が始まる。愛する事から、また、新たな生き方を見出す。だから、愛する人との出逢いは、新たな自分の始まりであり、愛する人との出逢いから、また全ては始まるのです。愛こそ全てであり、 愛は、全てを変える。人は皆、愛を必要としている。愛がなければ生きられないと私は思う。そして、人は、最後に神様と出逢う。愛の本質は、神であり。神の本質は愛なのではないかと思います。憎しみからは何も生まれない。在るのは、暗黒の闇だけであり、又、その闇から人を救うのも愛の力、光しかないのです。その光の源に神様が居られるです。愛は、希望の光。生きる力。命そのもの。愛は救い。人は愛する事によって救われる。人は、愛する事で、多くの事を学ぶ。人は、愛する事で多くのことを知る。愛する事で、人生苦労をお互いに背負う事により半減する事が出来る。人は本当の愛を知り。そして、神様と親に感謝して生きねばならない。
おはようございます冴神剣です。皆さん自転車には乗りますよね?では、自転車は歩道を走るべきですか?歩道を走るべきですか?お答えできますか?そんな法律的に決まってる訳じゃないし適当だろみんなそんな細かい事まで気にしてられるか!と言いたいですか。実はきちんと法律で決まっているのです法律では、大きめの道路は、歩道と車道、または路側帯と車道に分かれています。歩道とは、車道から一段上がっている所や、仕切りがある所。路側帯とは、いわゆる「白い線の所」です。 そして、歩行者は歩道か路側帯を、車は車道を通行しなくては行けません。では、自転車はどうなると思いますか? 自転車の通行方法については、道路交通法の第3章第13節「自転車の交通方法の特例」などに載っています。 此処では、63条の3から、63条の9まで載っておきます。自転車だけの特例が載っているのですが、先に、第17条と、第17条の2について書かせて頂きます。 2つの条文によると、自転車は、基本的には「自転車道」と言う所を走らなければならない事になっています。 しかし、歩行者の邪魔にならない場合は、歩行者の邪魔にならない速度と方法で、歩道も走る事が許可されています。 もし自転車で歩道を走っていて、歩行者の邪魔になった場合は、2万円以下の罰金か科料に処されてしまいます。 ではいよいよ特例を見てみましょう。 特例ではまず、自転車が歩道を走る場合の規定があります。 第63条の4の第2項では、自転車は、歩道の中の車道側を、ゆっくりと走らなければならないと決められています。 また、絶対に歩行者の邪魔になってはいけません(邪魔になりそうな時は、自転車が一時停止する)。 もし怠った場合は、先ほどと同じように、2万円以下の罰金か、科料に処されます。 そして自転車は、2台までは横に並んで走る事が出来ます。しかし、3台以上は横に並んではいけない、と定められています(第63条の5)。 次は、路側帯の場合。 この場合、自転車は路側帯と車道の、どちらでも走って構いません。ただし、これは路側帯と車道が1本線で区切られている場合であり、路側帯と一言に言っても、実は2種類あるからです。一つは1本線で区切られている路側帯、もう一つは2本線で区切られている路側帯です。 2本線の場合、自転車は車道を通行しなくてはいけません(また、歩行者は路側帯を通行しなくては行けません)。このように法律ではきちんと決まっており、皆さんが知らないだけで 実は、色々と細かく決められているのです。きちんとしたマナーを守り走行するよう心がけたいものです。

おはようございます冴神剣です。皆さん私達の周りでは(駅とか街とか)高校生達が駅の近くにある傘置き場に雨が降れば必ずコンビニの傘を盗んで行くその若い高校生達はコンビニ前で平然座ったりしている。女の子なんて股を広げて座っているのだから呆れたものだ。それだけではなく平然としてタバコ吸ってたり、車内でドアの近くに座ったりする。私からしてみれば椅子に座るんじゃなくて車内ドア付近は立つものだと思うのだが何かとモラルを欠けるような行為が目立ちすぎる。私が幼い頃は親、学校の教師が厳しく躾けられたせいか社会的なマナー、車内で騒がない、お年寄り、体の不自由な人には譲りなさい、など厳しく言われたものです。もちろん私も相手に不愉快な行動、迷惑をかけるような事はしないように努力しております。しかし、今の大人達は悪い事しているにもかかわらずなぜ厳しく注意しないのでしょうか?私も高校時代の時に家の手伝いをしていまして、外の掃除の途中で私が効率悪いやり方していたのでたまたま通りかかった60代ぐらいの知らないおばあちゃんが正しい掃除の仕方を教えてくれたものです。まぁ~最初は驚きましたけどね。
でも教えて頂いたおばあちゃんに今でも感謝しております。しかし本当になぜ注意が出来ない人が増えたんでしょうね?それと小さなお子さんが何か悪い事していて注意したらその親が嫌がる人もいますほっといてください見たいな感じ。これもどうして嫌がるんですかね?
私から言わせてもらえるのならば素直にすいませんと一言いったら良いのにと思ってしまいます。私は東京生まれ東京育ちなのですが最近のそう言うモラルの無さには痛感しています。正直最近のモラルの無さにびっくりしました。道行く者達は周りを無視してると言うか、傍若無人な事をしていても誰も気にとめる所か見て見ぬフリ、明らかに倒れている人がいるのに無視して行く人々、私も階段からこけて駅のホームにたたきつけられて倒れた事あありますが、誰も助けてはくれません。近くにいた駅員でさえも大丈夫ですか?の一言もなく、視線を倒れた私に向けるだけ。海外から来た人間が始めて日本を見た時に何て冷たい国なんだろうと思われないか心配になるほどです。そう言えば以前和田アキ子さんがこんな話をしてるのをテレビで見ました。赤坂のオータニ前の横断歩道で車にひかれて明らかに横断歩道に倒れているのに、その横を何人も歩行者が無視して通りすぎて行ったのが、驚いたと言っていましたが、まさに今の社会現象ではないでしょうか。。私は叔母の教育で育ったせいか、悪い者には結構注意したり、人が困っていたら助けたり当たり前のようにしていました。
まあ私自身が人が悪い事は悪い!良い事は良い!と言うタイプ
と言うのもあります。電車で入り口付近にダベっていた高校生に注意したり、傍若無人な行動の人の事を申しますと混んでるのに人を倒すようにぶつかりながら電車から出てくる人など私はそう言うまわり迷惑を何とも思わない若者や大人達が許せない。子供や若者に我々大人が注意したり、ひどい行動は許さない!と言う意思表示を一人・一人がしっかり持つ事が大事だと思います。電車の席を占領していた高校生がいたら注意してあげようよ。注意しに行こうとしたら、めちゃめちゃ止めに入るの辞めようよ。バスの中で平然とタバコを吸う人がいたら注意してあげようよ。周りに迷惑かけてる人に対して注意しに行こうとしてるのにめちゃめちゃ止めるなら貴方が行きなさいよ。今の世間様は注意もしない何もしないと思われたいのですか?情けないとは皆さん思いませんか。まぁ~日本って国は、海外からも人が集まっているせいか、言葉は悪いですが、何処の馬の骨とも分からない奴がゴロゴロいるので、関わったらヤバイと思うのは無理のない事かもと知れませんけどね。それと日本人は余裕が無い人が多すぎて、ストレスを溜めている人が最近では増えて来ています。そう言う人が反社会的な行動をする事によってストレスを解消しているんでしょう。ちなみにですが、私の場合はっりと注意するタイプです。今も昔もどこであろうと変わりなく。中高生が傍若無人になったのは注意しない大人が原因だと私は思っています。それに高校生とか大きくなったら言っても皆さんお解かりのとおり大人の言う事など聞きはしないので、小さい時に注意される、怒られると言う事に慣らせなければならないと思っているので小学生以下にはけっこうきつく言います。中学生以上には諭すように、何故それが悪いのか、いかに迷惑なのかを説明します。大人に大しては我慢する事は私も我慢しますが、明らかにおかしいと思う時や迷惑だと思う時にはやんわりとお願い口調で言う場合もあります。男だったら取っ組み合いになる事もありますよ。しかし、私は特に子供は親だけでなく、周りの大人にも教育する責任があると思っているのです。子供と言う者は何が悪い事か、迷惑をかける事かが分かっていないのできちんと教えるのは大人の義務だと思っています。私達が小さい時に怖い雷親父がいて注意していたと言う事を絶やしてはいけないのです!ちなみに若い奴でも中高生でもきちんとした良い人も一部ではありますがいます。大人でも間違った人達は沢山いると言う事は分かっていますので皆さん若者だけが悪いと言ってる訳ではないので誤解のないように。
また日本人の中でも強い心つまり武士道精神をもつ人もいると思いますのでそこの所も誤解のないようにお願いします。

おはようございます冴神剣です。最近の方々の大半はお金で愛が買えると思っているようですが、愛は金などで買えやしない!しかし、お金は愛で買えるのだ。私が皆さんに言いたい事は何かお解りですか「愛は金で買えない」これは当然だと思います。何十億、何百億と言う資産を持っているどこかの大企業の社長であっても、その金で寄って来る男性や女性と言うのは、その社長自身の魅力に惚れて近づいて来るのではなくて、お金が欲しくて近づいてくるのであり、結局は付き合ってもお金が無くなればさよならと言い離れて行くだけ、本心から愛されると言う事は無い訳です。しかし逆に、「お金は愛で買える」と私は思うのです。はぁ?何言ってるのお前意味解らないんですけど~と言いたそうな人もいると思いますが、例えばホストさんやキャバさんとかどうでしょう。ホストさんやキャバさんは自分の給料を上げる為に、お金を沢山もらう為、高額なプレゼントを女性や男性からもらう為に、ホストさんは女性に愛を売るりキャバさんは男性に愛を売る訳です。そうすると、そのホストさんのかっこよさやキャバさんの魅了に惑わされた男性や女性は、そのホストさんやキャバさんの事を好きになっていくらでもお金を払うようになりますよね。愛情と言うのは、男女問わず人間を動かす上での最も強力な原動力になり得ます。特に男性や女性は好きな男性や女性から何かして欲しいとお願いされたらまず、断る事は出来ないでしょうね。高額なブランド物のバッグが欲しいと言われたら買ってあげるし、高額な時計などをおねだりされても貢いでしまうと言う現象が普通に起こり得るのですから。そして、その品物の額が高額であればあるほど、その額に相当した愛情を皆さんは受けていると言う事をその目で、数値で確認する事が出来ます。本当に考えて欲しいのですが、真面目に生きていて、男性や女性に10万円、20万円と言う数十万円相当の品物をもらう事があるでしょうか。それは、高価な品物が欲しくてその男性や女性に貢がせる事が大事なのではなくて、そう言う品物を買ってもらえるような男性と女性になれたと言う自信が大切なのではありませんか。もし、皆さんが今までの人生で、例えば誕生日やクリスマスなどにもらったプレゼントが、一万円以下、又は8千円とか9千円で終わらせられてしまう男性や女性であるならば、貴方は1万円以下の魅力しかない男と女と言う事になってしまいます。持ちをお金の額で判断すると言う事は中々出来るものじゃないはずですが、少なくとも5千円のクリスマスプレゼントで済まされてしまう男と女よりは、20万円、30万円、100万円と言うプレゼントをもらう男や女の方がその男性や女性に愛されていると言う事は目で見て分かると思います。では、皆さんが理想とするモテる男性と女性の像と言うのは、複数の男性や女性が貴方に貢いでくれる、複数の男性や女性が貴方の事を本気で愛して色々尽くしてくれる。にもかかわらず、貴方その男性や女性に対するお返しをほとんどしないと言う状態が一番な訳です。そう言う状態を作り出せるような男性や女性になった上で、本当に好きな男性や女性に本当に自分が命をかけて守れるような男性や女性が現れた時に、全ての愛をその男性や女性に注いであげて、結婚すると言うパターンでしか運命の男性と女性には出会う事は出来ません。その事を最終目標としてしっかり意識しながら、仕事も恋愛も、友人関係も趣味も、そう言った事を全て意識しながら生きて行くと言う事が人生を楽しむ上で最も重要な事だと私は思います。
こんにちは、冴神剣です。皆さんも知ってるいるへそくりについて今日はお話します。少ないお金をちょこっとずつ秘密に貯めたたものを一般的に「へそくり」と言いますよね。 大抵の場合は妻が夫の収入の中から少しずつ貯めたお金の事を意味します。 でも考えて見て下さいそのへそくりは、本当に妻のものなのでしょうか? 「何言ってるの私が貯めたんだから、私のものでしょ!」と主張する奥さん。 一方で「俺が稼いだお金なんだから、俺のものだ!」と主張する旦那さん。皆さんこんな経験ありませんか? さて、法律はどちらに微笑むのでしょう。 民法第762条第1項「夫婦の一方が婚姻前から有する財産及び婚姻中自己の名で得た財産は、その特有財産とする。」 と言う規定があります。 解りやすく解説しますと「夫婦の片方が、結婚前から持っていた財産(お金など)と、結婚後、自分が手に入れた財産(お金など)は、その人の物」と言う事になります。「と言う事は、嫁のへそくりは夫の物、と言う事か」 と思いがちですが、実はへそくりは法律上、夫婦のどちらの物かはっきりされていないお金と見なされるのです。 その場合は、先ほどの条の第2項に当てはまり、 「夫婦のいずれに属するか明かでない財産は、その共有に属するものと推定する。」 とされます。 つまり、夫婦のどちらの物か判らない物は、2人の物、と言う事です。 簡単に申しますと妻のへそくりを見つけたら 「半分だけよこせ」 と妻に請求する事が出来ると言う事になります。
こんにちは冴神剣です。人間と言う生き物は人生においてテレビドラマでは描けないようなドラマが沢山起こせる生き物だと思いませんか。人生の中には沢山の出会いがあって、そのひとつひとつに小さなドラマがある事でしょう。特に男女の出会いと言うのは、恋愛に至るまでにもドラマがあって、その後も沢山の人生ドラマを重ねて行きます。そんな出来事が自分の知ら無い所で数多く起こっています。また、自分自身も同じ時代に生まれて、特定の場所と時間で人との出会いがあります。それが一生の付き合いになったり、運命や価値観を変えてくれるものであったりします。それが男女であるならば素晴らしいものだと思いませんか。一般の出会いも偶然の重なりから生まれた奇跡だと思いますが、男女の出会いはそれを超えた奇跡以上のものだと私は思います。私達はそんな体験の元で人生を歩んでいる。出会いと言うのは奇跡だと思いますが、人それぞれが違う人生を歩んでいます。当たり前かもしれませんが、その人生の中で同じ時間を共有する事が本当の出会いなのではないでしょうか。それが男女だと恋と言うものに変わって、更には愛に変わって行き同時に恋愛になっていくのです。これは同時に人生を歩んでいると言っても良いと思います。出会いと言う奇跡が起こって恋をする事によって、その出会いに意味が初めて出て来るからです。それが未来へと延びていって、その最終地点が結婚となるのではないでしょうか。しかし、その恋愛と言うのは平坦ではありません。全てが上手く行くとは限りません。その先には曲がりくねっていたり、デコボコな道もあるでしょう。時に上がったり下がったり、途切れる事さえもあります。更には超える事が出来ないような壁があったりするでしょう。

それを一緒に傍で乗り越えられれば良いのですが、それを乗り越えられない事が残念ならがらほとんどです。そのように人生を送っていてもゴールは見えてきません。そんな人生を送らない為に出会いを求めようとするのでしょう。そして、その先に幸福が待っています。出会いは偶然の中から生まれるものであり、全ての出会いは偶然の中で起こっています。いや、出会いと言うのは偶然でもあり奇跡でもあると言えるかも知れませんね。このように私が言うと矛盾しているように思われる事でしょう。ただ、これは哲学的な話をしようと言う訳では無く、偶然出会った者同士がお互いの行動を自分で決断した結果、その出会いに辿りついた事を忘れないで欲しいのです。それは必然的でもあると言えますがこれは恋愛に限らず、全ての出会いにおいても当てはまります。偶然は自分が歩んできた人生の中で選択して来た結果によるものだと言う事です。その選択した人生をお互いに歩んで行けるから必然として起こります。しかし、その必然の中で起こる出会いにおいて、2人が人生において偶然の中で重なりあわないといけない。それは偶然が巻き起こした奇跡でもあるからです。必然と言うのは結果的なものなのかもしれません。ただ、それさえも運命なのです。つまり、人と人が出会い、恋をして愛を育むと言う事は素晴らしい事で奇跡的な出来事なのです。だから、人は悩んだり落ちこんだりして、一人の事を思います。ただ、それ故に相手を尽き放してしまったり、無性に相手を求めてしまったりもします。人はただ傍にいるだけで良い存在に必要以上に求めてしまう弱い生き物なのかも知れませんね。恋と言うのは求められているものです。会いたい、いつまでも傍にいたいなどと思い事で満たされない気持ちで心が満たされます。その為に胸が苦しくなって、人によっては食事が喉を通らないと言う人もいるでしょう。恋と言うのは基本的には片思いの状態を言います。時には片思いだと思っていたと言う状況もあるでしょう。自分の気持ちを抑えなければいけないと言う状況からそのように胸をしめつけられるような思いになってしまいます。それでは、その恋は堕ちる瞬間どのような状況なのだと思いますか。出会っただけではそこから恋には発展しないはずですよね。そこに何か言葉に出来ない要素が加わる事によって心が動かされたり、相手に魅力を感じて恋へと発展して行くのです。一方で愛と言うのは与えるものです。恋とは違って無償で相手の事を思う事を言うのです。大切に思う事こそが愛と呼ぶようになります。恋は一人でも出来るのですが、愛は一人では出来ません。愛と言うのは色々な形がありますが、私の所では恋愛についての愛に限定させてください。恋が愛へとなる瞬間が恋が成就した瞬間なのです。その二人がお互いに恋をする事によって、お互いがそれを知った上で認めあう事になります。それが愛が誕生する瞬間なのです。だから、愛と言うのは実に尊いものなのです。無性に感じるからこそ恋愛と言うのは楽しいのです。幸せな気持ちになれるのは何故なんでしょうね。人を愛して愛される事に喜びを感じる事が出来る事に本当に感謝したいと思いませんか。そして、すべての出会いに私は心から感謝します。

おはようございます。冴神剣です。皆さんの彼氏・彼女・旦那・嫁などの浮気症を治せないかと言う思い一度はありませんか?浮気の悩みですがこれは探偵業界ではトップです。相談者さんからしたら本当に苦しいものだと私は思います。浮気している人・夫が浮気している・妻が浮気している・彼が浮気している・彼女が浮気している・先ほども申しましたように浮気で苦しんでいる方は沢山いらっしゃいます。しかし、浮気で苦しむ人程浮気症を直接治そうとしないでください。えっ!?って思われるかもしれないですが、何でも屋として実際に私が色々な体験し、そう考えさせられました。何でも屋とは、少し違う視点で物事を見るのです。もちろん、人の心はさまざまです。ですから一概に言えませんが、「浮気を直接治そうとしない」と言うのは多くの人に当てはまるのではないかと私は考えます。じゃぁ 何もしない方が良いのか?いいえそれは大きな間違えです。浮気している人の状況によって、やはり対応は変わって来ると言う事になります。大事なのは、「なぜ浮気をしているか?」だと思いませんか。浮気している彼氏の本当の理由は何か?此処で言う「浮気をしている理由」と言うのは、単に「出会い系で知り合った」「職場で親しくなった」などと言う表面的な理由ではありません。この表面的な理由は浮気調査などで解ってくるのですが、「浮気している本当の理由」は本人に聞いても正確な答えが100%返って来ないと思った方が良いでしょう。なぜ、すぐに答えが返ってこないのか?それは、「現実から逃げているから」だと言えます。では、「現実」とは何でしょう?現実から逃げると浮気する。此処で言う「現実」とは、お2人の関係性に対する現実を言います。例えば付き合った時が一番ラブラブだった・結婚(子供が出来てから)してからセックスレスだ・毎日同じ事の繰り返しでつまらない。夫が仕事ばかりで余裕が無い・会話が弾まない・こう言う現実が出て来るのです。そこを解決しようとしない事が多々あります。仕方ないとか、愛称が合わないとか、仕事で忙しいからとか、子供の事で精一杯だからとかそう言う理由で、どちらか若しくはどちらもこの現実に対応せずに逃げてしまうから、浮気と言う選択肢が出てきます。実際、現実社会の中で生活していると、そう言う事に精一杯になって、家ではゆっくりするだけみたいな状態になりやすいですからね。では、なぜ現実から逃げると浮気などに走るのでしょうか?それは、「2人の将来像が明確で無い」からだと考えます。例えば、付き合う前とか言う男女関係の場合あの子と付き合う為に!と、いろいろ手を変え品を変え、モテる為に努力している時期ってあると思います。例えば、結婚する前ならば結婚する為に努力し、お金を貯めたり、仕事を頑張ったり、相手両親に気に入ってもらう為に頑張ったりしていた時期があると思います。そう言う時期って、楽しく・幸せだったと思います。では、結婚してから、お2人の目標は何なのでしょうか?普段の生活を何となく続けているだけで、ハッキリ2人で目標を決めて、本当にそこに向かっていますか?給料が安い・毎日遅く帰ってくる・どこにも連れてってもらえない・ダラダラしている・構ってくれない・長く一緒に居ると、そう言う目の前の部分ばかりに視点がいっていませんか?結局、上記のようになるのは、お2人の楽しく幸せになる目標がないかもしくは余り意識していないからだと思います。明確な目標があって、それに向かっている実感があると、「早くそうなりたい!」っていうドキドキ感やワクワク感があります。今の生活の中で、お2人はドキドキ・ワクワクしていますか?それが無い場合や、片方が諦め・逃げた場合、違う事でそのドキドキ感やワクワク感を求めようとします。つまり、浮気によって、ドキドキ感やワクワク感を得ようとする。それが、浮気する本当の理由だと私は思います。ですから、浮気症の治し方と言うのは相手をどう変えるかではなく、お2人の楽しめる目標や幸せ感などを追求する事が大事だと私は思うのです。幸せって一体なにか?俺達は何の為に生きているのか?そう言う部分を深く話し合い、お2人の明確な生き方を探って行く事が、浮気症の根本の治し方だと、私は思います。お2人がドキドキ・ワクワクできる目標それが一体何なのか?考えるだけでもワクワクしませんか?まずは、そんな話が出来るようになる事が、第一歩だと思います。幸せとは何か?自分達はどんな生き方をするのか?2人でどんな人生を歩んでいくか?そんな話をして、目標を作って実行していくと、ドンドン毎日が楽しい2人になりますそうなると、浮気など全く意味のないものになります。