不思議な出会い光枝 -7ページ目

不思議な出会い光枝

人生とは何か?楽しく老後を暮らすためにはどうしたらよいのか?など色々書いて行こうと思います。

おはようございます輝心龍原です。臆病者は自分に対して負けを認めていると言う事を皆さんにお話いたします。臆病者は素直ではありませんね。そもそも、素直とは何の事を言うのかお解かりですか?素直とは飾り気なくありのままの事・曲がったり癖があったりしないさま・心の正しいさまを言います。 一見すると心の弱い人や自我が確立していない人は、他人の言いなりになる事が多く素直なようにもみえますが、それは大きな間違えです。本当に皆さんはそれが「素直」と言えるのでしょうか。 心の弱い人や自我の確立していない人の言動は、「素直」と呼べるものは一切ありません。あえて言葉を付けるならば「従順」それらの人の言動は常に抑圧された心の中から発し、相手に文句を言いたいのだけれど言えないので、仕方なしに相手の考えに従っているだけだと私は思います。 それを世間では「素直な人」と受け取っているに過ぎません。 だから臆病者が問題を起こすと、周囲の人は驚いたり、まったく心当たりがないと言わざるを得ない状況を作りあげるのです。しかし、臆病者だけならまだ良いと私は言います。一番悪いのは臆病になりすぎて心が弱くなり素直になれない人です。私は違うとそこで嘆いている方は以下に当てはまる項目が無いかご確認ください。その1相手に妥協や話を合わせる事をする。その2怖い相手と自分が認めたら自分から反発しない。その3相手に対して自分の意見を言わない。その4物質的な豊かさで自分をごまかすその5批判や非難をされる事が恐ろしいので、気が利く振りをする。その6自分を表現しない。その7自分を偽る。その8相手に経済的な利益を与える事で自分は正しい人だと自己暗示をかけて自分を保す事をするなど、貴方は何個この項目に当てはまる事がありましたか?心の弱い人が素直になれない最大の理由は何だと思いますか?それは、自分を大げさに表現する事で自分を守ろうとするからです。 自分を偽れば当然ながら、ありのままの自分を表現する事は一切しなくて良くなります。 精神的な自分(自我)が無くなりますので、相手に批判や非難をされる事は何よりも自分が辛い事になってしまうのです。 言われても言い返す事が出来ないのは、精神的なストレスを溜める事になり、彼らの自我が崩壊していく事を自ら好んでしてしまうからです。臆病者で心の弱い人は自分を偽ったり、飾ったりする事でしか自分を守る事は出来ないのです。 だから、本当の自分をさらけ出す事は、極端な言い方をすれば自滅と変わりがない事なのです。 逆に自我の確立している人は、相手の批判や非難を逃げるのではなくて受け止める事が出来るのです。 その受け止め方とは、批判や非難がとるに足らない事と判断すれば無視する事が多くなる事です貴方も心当たりあると思いますよ。 自我が確立していれば、相手になにを言われても、自分にとっては大して問題とする事はなくなりますから無視する事が得策ではないと判断すれば、自分の意見を明確に伝える事によって自分を守る事もあるでしょう。 ただし、この場合は相手のリアクションは自分の目に入っていません。 なぜなら自我の確立している人は、他人の言動によって自分の判断が左右される事は少ないからです。 自分には自分なりの、相手には相手なりの考え方があるのだと言う考えしか出来ないからです。最後になりますが自分に自信を持てない人は、相手に対しても、自分に対しても素直になれないと言う事を自覚して下さい。 言い換えれば、ありのままの自分を表現出来ていないと言う事です。 本当の自分を表現出来ないから、ますます自分自身が鎧を何重にも着て重装備になってしまうのです。 では私はどうしたら良いのと泣きますか?簡単な事ですよ自分に自信を持つ事は、何に対しても臨時応変に優先する事です。
おはようございます輝心龍原です。皆さんはお金が喉から手が出るぐらい欲しいですか?その為には親族を騙してまでお金を騙しとりますか?親族でもお金を騙し取ると言う行為は刑事上、詐欺罪もしくは横領罪が成立します。いずれが成立するかは、盗んだ者がどの時点で、騙し取ったお金を勝手に使うつもりだったのかです。(これを故意といいます)詐欺罪ならば最初から嘘をついて、本当は自分のおこずかい遊び代に使うつもりだったのに、大学費用に使いたいと偽って、親族から大金を貰った場合、その時点で詐欺罪が成立します(刑法246条1項)。これは、10年以下の懲役に当たる犯罪です。次に横領罪ですが途中から大学費用などをを自分の娯楽の為に使う気になった場合最初は本当に親を喜ばせたいと思って大学受験して大学に通うつもりでしたが途中で自分が行く気がなくなり大学費用を使おうと思い始めた場合には、横領罪が成立します(刑法252条1項)。自分が大学費用の為に親から預かっているお金を横領した事になるのです。これは、5年以下の懲役に当たる犯罪です。親族間の犯罪に関する特例(刑法244条)の適用についてですが親族側が、お金を騙し取った者に対して罪を問う為には、刑法上、騙しとった者を告訴する必要があります。刑法では、親族間での窃盗や詐欺、横領といった事件については、犯罪ではあるが刑を免除したり、告訴を待って捜査・裁判すると定めています。これは、「法は家庭に入らず」と言う言葉があるように、家庭内や親族内の問題は、人情と言えますから、家族の情愛が絡むので、必ずしも法律による定規な解決になじまない、むしろ、家庭内の話し合いで解決した方が良いとされ、犯罪に対する統制としてもそれで十分だという考えに基づいています。子供が遊ぶお金欲しさに親のお財布から1万円抜き取ったり、嘘を言って騙し取った場合、確かに悪い事であり窃盗や詐欺と言う犯罪になりますが、何も国家権力がしゃしゃり出て子供を刑務所に入れる必要はないと言う、普通の事を定めた条文が存在するのです。この処理の仕方としては2通りあります。1つが直系血族、つまり親子や、おじいちゃん・おばあちゃんと孫であるとか、同居している親族については、犯罪ではあるが刑罰は科さない、つまり刑務所などには入れない事になっています。そしてもう1つは義理の兄弟・義理の姉妹のように直系血族でもなく、同居もしていない親族については、義理の兄弟・義理の姉妹と言っても別々に暮らしている訳ですから、純粋に家庭内の問題と言う訳でもないので、被害者である親族つまりこの場合、親族側の告訴があれば、国も本気になって刑罰を科しますと言う事になるのです。したがって、このままでは騙しとった者が罪に問われる事はなく、詐欺や横領を罪としてを問う為には、親族が騙しとった者側を告訴する必要があります。ただし、告訴は、刑事訴訟法235条1項により、犯人(親族が詐欺・横領をした事)を知った日から6ヶ月を経過すると出来なくなります。もっとも、実際、騙しとった者を告訴しようとしても、警察は、「親族の間のもめ事なんだから当事者で話し合って解決しなさい。警察も暇じゃないから親族の問題まで付き合ってられない。」とか言われ、告訴状を受け取ってもらえない事が多いです。では、お金の返還は出来ないのか?いいえきちんとお金の返還請求は出来ます。親族は、騙しとった者に対し、大学費用に使わせた代金の4分の1に当たるお金を引き渡すよう請求する事が出来ます。この場合、親族は、騙しとった者に対し、大学費用のお金に、騙しとって自分が娯楽の為に使った日から計算して年間5%の利息を足して、引き渡さなければなりません。刑事事件と民事事件は別ですから、告訴しなくても、お金の返還を請求できるのは当然の事なのです。
おはようございます輝心龍原です。月と太陽はすれ違ってばかりいる。どんなに一緒に居たくてもずっと一緒には居られないのだ!でも、月はある事に気づいたこんなに周りは暗いのに私が消えずに輝けるのは太陽が見えない所で支えてくれているからなんだって事を。だから、私は貴方の光を頼りに夜明けを静かに待っているわ。

こんにちは輝心龍原です。皆さん空をゆっくり眺めた事がありますか。空は透明なのに、色が着いています。色が着く所がないのに、鮮やかなものです。キャンバスが無いのに、無限に絵が書けます。筆が無いのに、無限の空には絵が書けます。映す所が無いのに、それは輝いています。私が存在しない所では、私では無いものまで私になります。キャンバスが無いから、絵は無限です。私は誰にも頼らないから、私は私に縛られる事はないのであろう。私である所では、むしろ私は、私ではありません。私が何か(たとえ私でも)に頼ってしまえばそれは移り行くもの。一瞬たりとも、私では無い事になるでしょう。故に、色即是空とは移り行く私であり、私は存在しません。空即是色とは何処にも居ない者つまり常であり、満ち足りています。移り行くのは、それが何者でも無いと言う事。彩色無限(絶えず変わる色)は、透明である。透明であると言う事は空であると言う事。色であると言う事は常であると言う事です。仏教を学ぶ者、自分の人生を探す者等さまざまだろう。しかし、その答えはどこにも拾うものなど無く、捨てるものもまた無いと言う事なのだ。拾う貴方も無ければ、捨てる貴方も無い。何故かって?それは、拾うと言う事は、無い物を捨てると言う無知であり、捨てると言う事は、無い物を拾うと言う執着だからではありませんか。故に仏教や自分の人生を探す者達は。自然に何にも囚われる事は無いであろう。
おはようございます輝心龍原です。今のこの国はけして貧乏なんかじゃないのです。では、何がいけないのか?それは人は弱と言う事です。だから、政治でも社会でも上手く行かない事を他人のせいにして、自分は楽になろうとしてしまうのです。例えば親が悪い、環境が悪い、周りが悪い、学校が悪い。いくらだって、何かのせいにする事は出来ます。それは、我々大人だって言える事でしょうね。国が悪い、政治が悪い、会社が悪い、社会が悪い。テレビでも、そうやって、批判ばかりしている人を良く見ます。では、本当にこの国は貧乏なのだろうか?実は、私達は貧乏どころか十分に恵まれているのではないのでしょうか?目が見える、歩ける、家族がいる、住む家がある。喉が渇けば、すぐにコンビニでミネラルウォーターが買えます。こんな贅沢な暮らしをしているのに皆さんなぜ文句ばかり言えるのでしょう?どれだけ恵まれていても、その人の中に必ずある「闇の世界」に応じて、不平、不満は出てきてしまうのです。自分よりちょっとでも豊かな生活をしてる人が文句言っているのを見て、そんなに文句があるんなら、「貴方の豊かな生活」を壊してやるわ!なんて言ったりする人もいるけれど、貴方がその人の豊かな生活を壊しても、結局の所、貴方が文句を言う対象が変わるくらいでしかないのです。文句を言う人は、穴の開いた袋に何かを詰め込もうとしているのですから、当然な事ですが永遠に満たされる事は出来ませんよね。まず、穴をふさがない事には、文句、不平、不満は止める事は出来ません。自分の心の中に開いちゃっている穴は何だろうと考えた事が一度でもありますか?幼い頃の何かなのでしょうか?自分が若い頃に学んだ経験がいけなかったのだろか?大人になってからの葛藤に問題があるのか?そんなことを考えるのも、何かのせいにする事に実は繋がっているのかも知れません。我々人間は、心の穴が足りない事について考えない事が一番良いのかも知れません。
こんにちは輝心龍原です。仕事においてどんな理由だろうと関係ねぇ。もう一度言います。仕事にいい加減な理由などいらねぇんだ。仕事がまるで解らないのは実力のせいじゃねぇんだよ君達は経験がねぇからなんだ。なんで僕はこの会社にいるのだろ?って青臭い存在論を語る暇があるんなら、このチャンスを生かす事を考えな。理由を考えた所で何になる?そんな事よりもチャンスを生かす事を考えた方がそれを見つけられてパワーアップし、一生懸命になる事が出来るじゃねぇか。一方、理由を考え始めたら最後、何一つとらえる事が出来ねぇ臆病者になり一歩も進めなくなるなんだよ。きっと、見つけられる理由があるか無いのかよりも、今の自分に、その理由が理解出来るのか出来ないかの方が大切なんじゃねぇのか君達には。理解出来ねぇ理由なら、見つけようとしたり、分かろうとする事自体が、今は無駄な事なんだよ。だからさ、とりあえず、今やるべき事を汗水たらして学んだ事を積み重ねていけ!怠けてんじゃねぇぞ。そもそも、君達は何の経験もしていない前から、自分に何が向いているかなんて分かるはずがねぇだろ。先を見過ぎねぇ事が君達には大切なんだよ。
おはようございます輝心龍原です。皆さんは本当の幸せを求めてお付き合いや結婚などをしていますか?どんな状況でも、幸せになれる人はいますよね。しかし、それは間違いだと私は皆さんに教えます。例えば、無理やりプラス思考を作る事、会社を首になったが新しい仕事を探すチャンスと捉える、怪我をしたが、この程度で済んで良かった思う、相場で損切りしたが、授業料を払って成長したと考える。どれも前向きな姿勢で、一見正しいように思えますが、本当にそうでしょうか?私は本当にポジティブな行動であるかは、疑問が残るように思えてなりません。実際に心の底からプラス思考で、物事に感謝しているのなら、問題は無いと言えましょう。しかし、皆さんはどうでしょうか?無理にポジティブに考えようとしていませんか?【貴方の人生は、貴方しか未来を変える事は出来ないのです】つまり、プラスな結果が欲しければ、プラスな考えをしなければなりません。先ほど書いたように、事故でも病気でも無理やり良い事だと考えようとする人もいますが、それはやっぱり間違っていると思いませんか。皆さんが肯定しているのは、【幸運に恵まれている自分】ではなく【幸運に恵まれていないから、強制的に幸運だと思い込もうとしている自分】ではないのですか。その考え方は似ているようで、全く違う思考になるのです。表面的な意識(10%)がいくら自分は幸運だ!と叫んでも、心の底にある潜在意識(90%)は、それが嘘である事を貴方自身が知っています。だから、作ったプラス思考は、貴方をより惨めにするだけではありませんか。【プラス思考が出来ないから、私は不幸になる!】事故が起きたのは、ネガティブな考えをしたからだ!まったく、自分の身勝手な考え方にもほどがあるとは思いませんか。何の為に、貴方は本当の幸せを求めているのでしょう?ネガティブな自分を、無理に捻じ曲げても、幸せになりたいと思うのですか。大事なのは、自分の内面にある幸せを理解する事ではないのですか?と言っても、ほとんどの方は理解出来ないのでしょう。簡単に解るぐらいなら、本当の幸せを求める人はいないし不幸になる人なんて誰もいなくなります。しかし、今から私が言う事を皆さんなりに比較してみて下さい。病気になった自分は不幸だが、無理やり幸福だと偽る苦悩と病気とか関係なく、最初から幸福である事に気づく自分自身です。さてどちらが本当の幸せを求めていますか。前者は【病気である】と言う現実に囚われそれを捻じ曲げていますよね。当然、潜在意識は、それが誤りである事を知っています。病気そのものより、その無理な考えのほうが問題であると皆さん言えませんか。では、一方後者はどうでしょう?病気と言う概念に囚われていませんね。プラスとかマイナスではなく、空(何もない)状態です。何にもないので、潜在意識は、そのまま肯定されます。人間にとって一番健全な状態は、プラスでもマイナスでもなく、ゼロ(空)なのです悪い記憶は当然心を苦しめます。しかし、良い記憶だからと言って、必ずしも皆さんを幸福に導く事は出来ません。善悪が問題なのではなく、物事に囚われ、自分を見失う事が、最も大きな問題だからです。それに比べたら、病気も怪我も、あらゆる外的要因は、些細な事に過ぎません。皆さんの潜在意識は、最初から皆さんが幸福である事をちゃんと知っているのです。日々の小さなアンラッキーが問題にならないくらい、皆さんが力強いことを知っています。その深遠な認識を、表面的な思い込みで汚してはなりません。本当の幸福を求めるのなら、自分の中にある囚われをまずは捨てる事から始めましょう。ラッキーもアンラッキーも無く、全ては空なのです。それを認め、信じる事が出来れば、不幸であると言う思い込みも、自然に消えて行く事でしょう。囚われが消え、カラッポになれば、そこには皆さんの純粋な願いだけが残ります。静かに目を閉じて、自己の内心を見つめて見て下さい本当の人生は、そこから始まっているのです。皆さんが自分自身の幸福に、早く気付けますように私はいつでも願っています。
こんにちは輝心龍雲です。皆さん、長崎県にある雲仙普賢岳と言う山はもう存知ですよね 若い世代の方は知らないと思いますので軽く説明しておきます。この山で1991年、今から22年前に大きな噴火災害がありました。 私はテレビを通して山の恐ろしさ噴火災害についての恐ろしさを味わいました。、この災害は、私達が如何に環境破壊をしていたのかと改めて実感しなければ無いと言う事を私は忘れる事が出来ない、、、、いゃ決して忘れてはならない出来事なのだ。何年前だったか忘れましたが長崎県島原市の雲仙普賢岳でテレビ朝日の系列局が参加して行われる災害研修があったそうです 災害時の報道の在り方について考える為の研修らしいです。 雲仙普賢岳の噴火災害では皆さんどのくらいの犠牲者が出たか皆さん覚えていますか?軽く数えても43人もの犠牲者が出ています。 このうち20人が記者やカメラマン、助手、運転手といった報道関係者だったのです彼等は当初、危険な状況におかれながら、取材を続け、周辺の人々に、 テレビやラジオを通して避難を呼びかける為に、多くの報道関係者が亡くなったのだと私は思っていました。 しかし、その予想は間違っていたのですこの噴火災害ではこのマスコミ特有の現象が実は起きていたのです。各社が競うに報道合戦を繰り広げようとしていたのです。 その時、報道関係者は、貴重な火山の映像を無理してでも撮影しようと、 警察や消防団の規制を無視し山のそばで取材を続けていたのです。 避難を呼びかける対象の住民がその場所からすでに離れていたにも関わらずなぜ彼等はそこまでしたのか?何故彼等はそこにとどまったのだろうか私には理解出来ません。 結果的に、多くの報道陣が火砕流に巻き込まれ亡くなり、この報道陣がした行為により、 そこにいた警察官や消防団員も亡くなってしまったと言う事態が起きてしまった。この集団的過熱報道こそが、これから先の色んな報道の仕方国民にどう伝えていくのか。 報道関係者に突き付けられた大きな課題ではないのだろうかと思います。 社会人になれば、どんな企業でもライバル会社に負けないよう良い仕事をして成果を残そうと頑張ると思います。 これは報道もそうではないかと私は思うのですが、他社が報道していない情報・映像を、いかに早く視聴者に伝えられるかが求められるのでしょうね。 現場にいた報道関係者は、災害と言う「危険」を前に、ここで避難してしまえば、自分だけ映像を撮り逃してしまう。 そんな心理が自然と彼等の脳裏にはあったと思います。もし仮に私がこの状況に置かれていたら、亡くなった方々と同じように現場活動をしていたかもしれません。 現場でしか感じることの出来ない「危機感」と他の人には出来ない私だけにしか救えないと言う使命と「思い」 この3つに、どう折り合いをつけていくのかどう対応したらいいのか、正直まだ自分自身解りません。 しかし、この普賢岳を目の前で見て、改めて自分自身の未熟さと人間達のあまりにも勝手すぎる環境破壊を考え直さなければないと言う課題の重み、現場で取材をする報道関係者の責任の重みを、 改めて実感しなければならないと私は改めて実感しました。
おはようございます輝心龍原です。今の現代社会を生き抜くのは戦場を行くが如きものと私は心得ていますお互いを見つめ合う夫婦も良きものですよ。もし妻に危害が加わる事があれば私は前に立ち妻の背後を守りたいと存じます。飛んでくる矢の二本や三本、私が払って道を切り開きます。代わりに、私が戦場で傷ついた心を癒してもらうようにしますと、私は天下無敵になります。人にはいろんな愛情、友情があると思いますが、自分達とは違うタイプだからと言って、否定する者達を私は絶対に許さない。周りが否定しなくても、自分達の愛情、友情が、一番に変わりないのだから。自分達に関わる事だから、それが一番になるのは皆さん同じではありませんか?誰彼と比べて、一番になる必要もなければ、性格、相性、好みの問題もあるのだから、そもそも、比べようがないと思いませんか。そう思う者が何人いるだろう?皆さんに問う皆さんの恋愛とは固定しなければならいのですか?結婚とは束縛する為にするのですか?友情ってなんですか?違いますよね。恋愛にはいろんな愛情があって良いはずでは?いろんな友情があって良いはずですよね。
こんにちは輝心龍原です。誰かが、心の戦場を戦っている以上、世の中はまだまだ捨てたもんじゃないかも知れない。そう信じる事が大切なんじゃないだろうかと私は考える。皆さんがそれぞれの心の戦いを一生懸命がんばっている。けれど、我々人間は他人の心までは見えないから、おかしな事に、一緒に戦う仲間のはずなのに、あたかも、相手が敵であるかのように同士に向かって戦いあわなければならなくなる事もある。確かに、周りには沢山の敵はいる。けれども、目の前にいる人皆さんが、本当に自分の敵じゃない事もあるのは常に頭に入れておき理解しなければ冷静な判断は出来ない。戦う社会の中にこうやって身を置いていると、そんな勘違いをしそうな空気さえあるように私は感じます。もしかしたら、今の日本社会と戦う事こそが、我々国民の本当の戦いかも知れませんね。それは、具体的に何かと問われると反社会運動とか、政治活動をする事じゃなく、そう言う社会において、自分の成すべき使命と言うか本当に自分にあった仕事を見つける事だと私は思うのです。その中で、自分だけが頑張ってもどうにもならない。そう思う事がこれから先多くあるかもしれない。それは、自分が楽になるし、自分自身にあきらめもつく。けれど、その判断ちょっと待ってくれ!皆さん本当に、それで納得して後悔しないかい?!僕が一番気にして皆さんに言いたいのはそう言う事も含まれているんです。