こんにちは。
澤野大樹氏青森講演会主催
小野裕美子です。
 
改めまして、みなさま。
ブログへのご訪問、
誠にありがとうございます。
 
さて、今回は
青森県八戸市博物館へ。
 
 
かつて南部藩と津軽藩は
敵対してた仲。
 
津軽藩初代の藩主、
津軽為信公は南部藩出身の人物だったって
ご存知でしたでしょうか。
 

 

-南部藩の成り立ち-
 
時代は
武士の出現による鎌倉時代に、
源頼朝の家人である
南部三郎光行の一族が
奥州藤原討伐で功を上げ、
青森県全土と
秋田・岩手にまたがる
糠部郡(ぬかぶこおり)一帯の支配を
まかされて大移動してきたことから始まる。
 
南部といわれる由来は、
甲州甲斐国の富士山の
世麓を南流して駿河湾に注ぐ
富士川の右岸にあって、
今はその左岸をも併せて
形成している南部の
地頭職(じとうじき)となったことから、
南部を冠するようになる。
 
父は甲斐国の加賀美郷・
小笠原郷を勢力にして
その後功により
信濃国を受領し
信濃守遠光を名乗っている。

糠部郡を受領といっても
必ずや抵抗勢力はあるもので、
奥津軽や秋田方面は
たびたび小競り合いが続いていた。
戦国時代も信長の死によって
大きく変わろうとしていた。
 
(中略)
 
津軽為信は、
元は南部氏家中として
大浦為信と名乗り
津軽地方へ出仕していた折
南部家一族の
石川高信の守る石川城を
突如として電撃攻略し、
津軽地方一円に勢力を築き
一代で大名となった。
 
南部と津軽は
犬猿の仲などと例えられるが、
大浦為信を逆臣の極みと
嫌ったことが尾を引いて
今に至っていることなのだろう。
今となっては争う理由は全く無く、
同じ青森県人として
仲良くしたいものである。

以上、しるばにあっぷるvol.99 
p.20~より一部抜粋
 
 
 
武家の出現から
七百年続いたのは、
九州の島津家と、
青森(八戸)の南部家、
たった二つだけだったとは
驚きました。
 
津軽人の私は、

八戸の歴史に関しては

とんと疎くて、すみませんでした。。
 
これからは青森県人として、
ちゃんと勉強したいと思います。
しるばにあっぷる代表の山本光一さんには
いつも色々とおしえていただいて
感謝しております。
 
ちなみに、
地元人もビックリなお話を
ネオ縄文の提唱者、
澤野大樹さんが
八戸の歴史にメスを入れ
驚きの読み解きを展開。
 
澤野さんは、
今起こっている社会現象、
歴史を解読する能力が
ズバ抜けている方です。
それは想像を遥かに超えます。
きっと、
予想だにしない現象が
巻き起こることでしょう。
 
八戸市博物館でフライヤーを置いてくださいました。
ありがとうございます。
 
更上閣さん(八戸市)さんでも。
 
ありがとうございます!
 
 
「よしだ自然療法室」(八戸市)さんでも
フライヤーを置いてもらっています。
 
 
よしだ治療室さんのHPがないので、
上記メニューを見て、
お問い合わせ・ご予約をしてみてください。
(いつも予約で一杯です)
私と娘二人も
診ていただいたことがあります。
 
 
しかし__
津軽も南部も同じ青森県人。
同じ日本人。
同じ地球人。
 
津軽人の私に、
南部の人たちは
とてもあたたかく接してくださいました。
八戸も大大大好きな街です。
ありがとうございました。
感謝合掌。
 
合掌土偶:是川遺跡出土(是川縄文館にて本人撮影)
 
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澤野大樹氏青森講演会主催
小野裕美子
 
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