北はっさく市への視察兼部内旅行は10月の第1週から2週間の予定に決定した。和田が部長に話を持ちかけてから、一週間でのスピード決済。稟議書を回すと偉い人の判子が10個以上ついて、平均で2ヵ月後に帰ってくる、一ツ橋電機の体質からすると異例のスピードだ。このスピードは部長の尽力のおかげ。こういう時の城田部長の行動力はすばらしい。だてに会長の飲み友達じゃないなと、山田は感心した。ただ、その行動力を他に生かせば、分室に飛ばされることも無かったのに。

ついでに、城田部長が人事部に掛け合って、2週間の留守になる分室の業務を処理する為に、派遣社員を1人獲得することにも成功していた。赤字に苦しむ会社がこんな部署に派遣社員をよこすのも異例。実は、部長はなかなか社内に人脈を持っていることがわかった。ただ、分室の業務が派遣社員1人で足りてしまうんだから、山田は自分の仕事の無意味さも再確認した。

2週間後に迫った出発日に向けて、分室のメンバーは準備に余念がない。城田部長は最近よく外出して、北はっさく市の観光案内書を探しに行っている。丸の内の書店を探しつくしたんだけど、どこにも売ってないようで、今日は八重洲ブックセンターに足を伸ばしている。そのフットワークの軽さをなぜ仕事で生かせなかったのか不思議だ。

ワーカホリックの池田課長は留守中にやってくる派遣社員のために、分室の業務を体系的にまとめた、職務マニュアルを作成している。半日で終わりそうな作業だけど、先週からそれにかかりっきりだ。山田が課長にチェックを頼まれた、修理品を工場に転送する業務のマニュアルは、携帯電話のマニュアルくらいの分量で、宛名ラベルを張り替えるだけの作業をここまで複雑に解説できるのは逆にすごいと思った。きっと、このマニュアルも携帯のマニュアルと同じ運命で読まれないんだろうなと思ったけど、課長に言うのはやめといた。今日は、経営会議の書類のコピーの仕方のマニュアルを作成中。きっと、コピー機の使い方から、コピー機のマニュアルより詳しく解説しているはずだ。

近藤は最近購入した、1200万画素のニコンのデジタル一眼レフを和田主任に向けてためし撮りをしている。レンズに向かってセクシーポーズを決める和田主任。白目をむいてレンズをにらみつけている。上目遣いのつもりなんだろう。近藤は、ユリが生まれ育った北はっさくを写真に収めてユリたんブログを充実させるつもりらしい。今まで実際に北はっさくまで足を運んだユリたんブロガーはまだいないので、今回の訪問で、他のユリたんブログから一歩抜け出ようとしているらしい。

和田主任は、カラ出張を控えて、「旅行のしおり」の作成に取り掛かっている。今回もしっかりお風呂の時間はタイムスケジュールに組み込まれている。今回は一応村の視察のスケジュールも組んでいるので、ユリとの連絡役をまかされている山田は和田主任との打合せの時間が多くなった。打ち合わせ中熱い視線を感じるんだけど、気のせいだろう。

メイリンはお土産リストを作成している。故郷の兄弟たちにお土産を頼まれたらしい。兄弟たちは15人いるらしい。大変なんだな。今回の旅行用に、社長からエルメスの旅行バックをプレゼントされて、早速ヤフオクに出品していた。きっとこのバックも会社の経費で落とされてるんだろうと思うと悲しくなってくる。

山田はまじめに稲川から渡された、新規投資案件の書類に目を通している。一ツ橋電機の数ある事業部の中から、環境に優しくて、採算が取れそうで、現実的で小規模な新規工場の立ち上げ案件を探しているが、無駄に拡張してきた一ツ橋電機の数ある事業のなかでも、なかなかそんなに都合のいいものは出てこない。2週間後までには、アイデアだけでも形にした状態で行きたいと考えていた。

旅行が正式に決定した日に、城田部長から北はっさく市との連絡役を任された山田は、一緒に働きだしてから初めて「僕が仕事変わりましょうか?」と提案してきた近藤を無視して、先日会ったときに聞いていたユリの携帯番号に電話をしてみた。気になる女の子に電話するのは、なんだかどきどきする。が、何回かけても、「お客様のおかけになった電話は、電波の入らないところにあるか、電源が入っていないためかかりません」というアナウンスが流れるばかりで、一向につながらない。

もしかしたら自分は何だか分からないうちに、ユリに嫌われてしまったんじゃないかと不安になってくる。普段の山田なら気になる女の子に電話をして一回でも繋がらなかった時点であきらめるけど、今回は一応仕事が絡んでいるので何とか連絡を取る方法を考えた。名刺交換した時の名刺を取り出してみる。思ったとおり、事務所らしい固定電話の電話番号が書いてあり、山田はそこに電話をかける。今度は簡単に繋がった。呼び出し音を聞きながら本人が出てくれたらいいなと思った。なんだか、中学時代に携帯電話を持ってない頃、好きだった美樹ちゃんの実家に電話をかけてデートに誘った時以来のどきどきだ。あのときのデートは、綿密に計画を立てたスケジュールを立てたけど、美樹ちゃんが遅刻してきて、その後のタイムテーブルがぐちゃぐちゃになってぐだぐだで終わった。

そんなことを思い出していると、「はい、佐藤ユリ事務所です」と男の声がした。緊張しながら「一ツ橋電機の山田と申しますが、佐藤さんはいらっしゃいますか?」と返事をする。「少々お待ちください」といって保留音が鳴る。保留音は「スターライトはっさく」だった。いつ聞いてもまったく魅力を感じない音楽だ。「もしもし」久しぶりに聞くユリの声。そういえばこんな声だったと思って、ユリのことを思い出した。なんだか、心の奥がぎゅっとする感じがした。

「山田さん!電話待ってました。」ユリが嬉しそうな声で話す。仕事のことだとしても、自分の電話を待ってたって言われるのは嬉しい。
「久しぶりです。何回か携帯に電話してみたんだけど」
「ごめんなさい。北はっさく村はアンテナ立ってないからいつも圏外なんです。南のほうに行ったら入るんだけど。」よかった。拒否られてるわけじゃなかったみたいだ。
「あの、工場のことなんですけど、実は具体的に検討していまして、今度検討チームで北はっさく市の見学に行きたいと考えてるんですけど・・・」
「本当ですか!ぜひ来てください。村をあげて歓迎しますよ!」

ユリはとても喜んでいて期待をしてくれているみたいで、部内旅行を兼ねてるなんてことは言えなかった。日程を伝えて、宿泊施設の手配をお願いした。視察の予定はユリの方で考えて組んでくれることになった。部長から必ず確認するように言われていた、娯楽施設の有無を確認したら、徒歩2時間くらいのところに北はっさく唯一のパチンコ屋があるらしい。娯楽施設があることだけ伝えて、所要時間については報告しなかった。

仕事の打ち合わせとは言え、ユリと話を出来るのはとても楽しくて、なんだか話してるだけで幸せな気分になった。ユリの期待を裏切らないためにも、形だけでもちゃんとした視察が出来るように、山田は必死に各事業部からの書類に目を通すようになった。

キングファイル6冊分くらいの書類を見ていると、一ツ橋電機の体質が良くわかる。薄型テレビ、ブルーレイディスク、携帯電話、ゲーム、パソコン、MP3プレーヤー、カーナビ、デジカメ、太陽電池、エアコン、洗濯機、炊飯器、住宅設備、等々、とりあえず電機メーカーがやっている事業は何でも手を出している。それが、全て業界首位の企業の物まねで、どの事業についても業界でのシェアは下から数えたほうが早い。チャンピオンカンパニーの類似品を安く売る。戦略としては完全にフォロアーに甘んじてて、核となる事業がまったくない。その上、金融や不動産なんかのビジネスもなんとなく始めてしまって、ますます本質が見えなくなっている。20世紀はそれで乗り越えてこれたが、21世紀に入ったらいくらがんばってもその戦略では新興国には勝てなくなってきた。どの事業部も体質転換のために予算を必要としてるんだけど、どうがんばっても会社にそんなお金は調達できない。稲川が「つぶれるんじゃないか」って言ってた気持ちもわかる気がした。

絶望的な気持ちで書類を眺めていると、いつの間にか定時が過ぎていた。城田部長は帰ってこないし、マニュアル作成に必死だった池田課長はチャイムがなると同時に席を立って帰っていった。今日はグループセラピーは無くて、一ヶ月に一度の分かれた奥さんが連れて行った小学生になったばかりの娘と会える日。珍しく明るい表情で帰っていった。

メイリンはいつものように秘書室からの電話に呼ばれて出て行ったし、近藤はニコンを持って夜景をためし撮りしに六本木に旅立った。残っているのは、和田だけ。和田は山田の隣の机でパソコンに向かって「旅行のしおり」を作成中だ。

「ねえ、山田ちゃん最近毎日何を読んでるの?」和田が話しかけてくる。
「いろんな事業部から来てる投資案件の計画書です」
「そんなのどうしたの?」
「上の稲川さんにお願いして借りてきたんです。なんか北はっさくに持っていけるような案件ないかと思って」
「ふーん。そんなのまじめに見なくてもいいじゃない。それより、電車の席順を決めましょうよ」
「いや、忙しいんで。和田さん勝手に決めていいですよ」
「冷たいわね。昔は和田さん和田さんってあんなに慕ってきたのに」
昔は和田さんもそんなに本性を全開にしてなかったし、ネタでやってるんだと思ってたからだ。本物だってわかったのは最近だ。身の危険を感じ出したのも最近だ。
「本当に忙しいんで。これ来週中には全部目を通しておきたいから」
「山田ちゃんが選んだって、どうせまた上の連中が自分たちで選びなおして、私たちの意見なんてなんの影響も無いわよ」
「そうでもないですよ。いいのがあったら稲川さんの印鑑押しといて良いって言われてるし。ほら」

山田は稲川から預かっている印鑑を見せる。経営企画室での稲川の評価は高いので、稲川がOKした書類なら、経営企画室の室長はメクラ判を押す可能性がある。そうなると、次は経営会議の議題に上がるまで行ける可能性は結構あると山田は考えていた。ただ、経営会議で一蹴されるんだろうけど。
「いいもん持ってんじゃないの」和田が怪しくつぶやく。
「どうしたんですか?」
「ちょっとコレにその判子押しといてよ」

そう言って和田は自分のキャビネットからクリアファイルに入った書類を取り出して、山田に手渡す。

「なんですか、これ?」
「昔から提案しようとしてるんだけどさ、部長が見ようともしてくれないの」
「なにかの企画書?」
「そうよ」
「和田さんそんなの作ってたんですか?」
「そう。部長に何回も再検討しろって言われて、何回も作り直してるから、だいぶ完璧よ。部長に会長と飲んでるときにこっそり渡して承認させちゃいなさいよって言ってるんだけど、ぜんぜん動かないのよね。あのハゲ」
「何の企画書ですか?」
「私たちの本分を発展させる為の投資よ」
「僕たちの本分?なに?」
「山田ちゃん私たちの本分をわかってないの?私たち分室の最大の仕事は?」
「雑用?」
「何言ってるの!」怒られた。
「すいません」
「私たちは一ツ橋電機創業の事業を受けついで守っていく部署でしょ。」
「修理?」
「そう。修理。私たちの修理技術は世界に誇れるレベルなの。それを最近の偉い人はぜんぜんわかってないんだから。とりあえずその企画書を読ませれば目が覚めると思うの」
「へー。」
「とりあえず読んでみてよ。」
「はい」

和田がこんなにまじめに書類を作っていたということにちょっと驚きと興味を覚えて、企画書を読んでみることにした。この企画書が、経営企画室分室のメンバーと北はっさくの人々の運命を大きく変えるなんてのは、まだ気づいてもいなかった。