(「もっけ-物怪」熊倉隆敏著)
と何度読み返した漫画の中で修験道を極めたおじいちゃんが、見鬼(モノが見える性質)と憑童(よりわら=憑依体質))の孫にいう言葉が先日から引っかかっていた。
私は絵描きなので、なんなのかわからないものも感じるし、それを表現する仕方もよいのか悪いのかわからない、もしくは迷う。
絵も言葉も細部まで説明的過ぎると表現は死ぬ。
そして現在の世の中。
当たり前、常識を改めて皆が見直すとき。
常識やシステムが変わる契機だけども、積み重ね慣れてきた考え方はなかなか根強い。
以前、電車内でぶつかったストレスフルな若い会社員に沢山文句を言われた。
「絵なんか描いてないでちゃんと仕事しろ」
また同級生にも「まだ夢見て絵なんか描いてるの?」などと。
それらの言葉を自分で否定してきたつもりだが、信じてしまっていて「世間知らず、常識から外れた人」という檻を自分で作ってしまった。
また、敏感であること、考える、感じることが少し多く深いため、仕事の上でも「皆と同じ」は難しい、と胆嚢炎になって手術して気付いた。
それから、自分の声を聞くように絵を描き
なるたけ好きにときめく方向に解放していく中で、多くのギャラリストからは「今の絵じゃダメ」「とにかく緻密に描け」「コレクターが驚き欲しがる絵を描いてよ」と考えと系譜をきかれもせずに一方的に言われると、またそっちの他人軸に合わせて描かねばいけないと信じて思ってしまうが、自分が不在なのだ。
私もOK,相手もOKなアサーティブなバランスが良いのだが、そのバランスが取れてない状況は不健康だ。
他の売れてるアーティストと同じような絵を描いても自分不在の魅力のないしかばね絵画の山ができてしまう。
自由に動けない現在の状況下でも「みなと同じように」の思いは根強い。
そこで今日最終怪だった「妖怪シェアハウス」のドラマで主人公澪がAかBかの究極の選択を迫られ、最後には選択肢にない常識外れのCを選びそれが自分を一番大切にする選択だと確信するくだりに大変共感した。
ギャラリストのダメ出しも、世間とは違うという劣等感も「常識」が土台にあって、
でも、売れても売れなくても自由に発想してときめく制作がしたい、一般的に就職などもしたけれど自分の性質ではハマれなかった、むしろ身体を壊した。
ドラマの主人公が選択肢の外を選ぶ、というのは、絵で色やモチーフに悩むときに似ていて、常識=普通=当たり前な範疇で考えていて、
「あ、コレだ!」とときめき閃くのは選択肢外のことがほとんどだ。
言われたとおり、型にはまったようにそつなく小さくなりたくはない。
少なくとも自分は自由に発想してよいんだ、と自分に許すことが、自己肯定の大切な鍵になると、日に日に強く思う。
捉えどころのないものを「でも私には自由な発想がある」という安心で対処したいなあと思う。
また長い長い道の途中。
戯言雑文失礼いたしました。(●´ω`●)
