長いけど
ここ一週間くらいの出来事をまとめた
1月17日から19日
「絶対に後悔のない取材にします。みなさんにも。取材する私たちも」
NHKによる取材が決まったとき、デイレクターのkさんは私にそういった。
正直、「でもそれってけっこうむつかしいよなあ。双方がそうやって思うのは。」と思った。まあ、取材される時点でいい思い出やから別にいっか。そんな短絡的な感想だった。
1月17日、取材が始まった。まずは、林さんの聞き取り。元日本兵の林さんは中国の最前線で戦い、捕虜となった2人の中国人を銃剣で殺害した。そのときのことを語ってくださった。
でもー。
林さんの中に大勢の林さんがいた。
「勝ったらええんや。勝つんやったら戦争はしてもいいなあ」
「朝鮮がとられてしもて、悔しいやんか」
「戦争は絶対にあかん、勝っても負けてもや」
「中国人の人を殺したときどんなきもちでしたか・・?」
「・ ・・。そりゃあわるいことしたなあっておもうよ。」
ーでもそのときの話になると、すぐに話題をかえようとされました。
「けど、自分らも殺すと思うなあ。そうするしかなかったもん。今やったらどうするかって?今やったらそやなあ、わからへんなあ」
わからへん。という言葉の裏には何があるんだろう。
きっと。林さんは人をころせる人じゃない。普通のひとやったんや。やのに殺さなければならなかったこと、正当化しようとして、それでもできなくて、悩み続けている。
そんな戦後を過ごされているのかな。
kさんは、林さんが中国人を殺したっていう話から逃げようとすると、「林さん!」って引き止めていた。そのときのこと、もっと詳しくおしえてくださいって。
なんで?私にはできなかった。
でも、kさんが言う、お互いに後悔のない取材ってそおいうことなのかな。
きっと、本当に言わなければならないことを言わずに、取材を終えてしまったら。これが最後の機会かもしれないのに。本当のことを言わずに取材を終えてしまったら。林さんは言えないまま。後悔すると思う。
心のどこかで。
人に話すことで、林さんは肩の荷を降ろそうとしている。
でもそれは簡単なことじゃなくて。
それはそうだ。
だから聞き取りって、逃げたくなるような話も、時には厳しく、切り込んでいかなあかんのかな。
それがお互いの為の取材なのかな。
あたしは本質的に「取材相手のための取材」ができていたのかな。
できていたんだろうか。
取材した後、すごくすっきりした相手の顔を見れたときはすごくうれしい。でも取材は人生相談ではない。
本人が本当にしゃべらなあかんことを引き出すことの中に、伝えなきゃいけない事実があるんじゃないか。
でも引き出すには、自分が傷つかなければいけない。
「これ、聞いていいんかな。こんなん、聞いたらあかんのちゃうかな」と思いながらも、毅然とした態度で質問することは、質問する側が1番傷つく。
自分の質問で人を傷つけるかもしれないと思うとき、勇気がいる。
なぜなら、1番傷つくのは、傷つけた側だ。
自分はそんな痛みを負うのが怖くて。
逃げてきたんだと思う。
でもそれじゃあ、取材相手のための取材はできない。
そんな、声にできなかった声を聞きだすことの難しさを知りました。でもそれこそがやらなきゃいけないことなんだとも気がつきました。
次の日、日ソ不可侵条約を破ったソ連軍から命からがら逃げてきた杉本さんの話を聞きに行きました。
戦時中を満州で過ごした杉本さんは当時小学校5年生。ソ連軍に一番近い村に住んでいたので、初めてソ連軍が侵攻してきた瞬間だったそうです。
ランドセルだけをもって着の身着のまま汽車に飛び乗ったときはまたすぐに戻れると思っていたそうです。でも途中の駅で兄とお父さんは降りてソ連軍と戦いに行きました。
杉本さんは母と姉の二人、そして総勢70名にもなる、満州にいた日本軍の妻と子供たちをつれて、日本に帰るたびを出発させます。汽車は黒石屯という場所で停車し、満人が暮らしていた、古い民家で折り重なるように寝たそうです。
夜になると、ソ連軍が松明に火をつけて、やってきて、女性の髪の毛を摑み、顔を見るそうです、女性だとわかると連れて行って強姦。夜になるとあちこちから女性の悲鳴が。聞こえてくる悲鳴は今でも耳から離れないそうです。
女性だと気づかれぬよう、髪の毛をそり、墨で頭や顔を黒くぬってわからないようにしたそうです。杉本さんのお母さんは、日本人の女性として大切な黒髪を切ってはいけません。と断固として切らせなかったようです。
黒石屯では若い女性は満人の畑仕事を手伝っていたそうです。そうやって少ない食料を分けてもらっていたそうです。
ある日、姉がソ連軍に見つかり、強姦されそうになるところを唇を噛み切って逃げてきたととがありました。顔中血だらけにして。その日から母は夜になると、豚小屋に非難して眠ったそうです。豚が鳴く声と近寄ってくるのが気持ち悪くて気持ち悪くて。でも母の懐の中で眠れたから大丈夫だったと話します。
黒石屯をでて、一路、日本に向け歩き続けます。食べるものはなく、草の根と、泥水をすするような毎日。そんななか、一番初めに儀際になったのは小さな赤ちゃんでした。お母さんのおっぱいが止まり、栄養失調で死んでしまうのです。
そんな赤ちゃんを埋めてやることもできず、歩き続けなければならないので、草むらの中にそっと隠して手を合わせたそうです。そのときのお母さんの顔がかわいそうでかわいそうで、わすれられない。と話しました。
若い奥さんがいて、その奥さんには幼い子供が4人いました。まだ赤ちゃんと、愛子ちゃんという3歳くらいの女の子、上の二人もまだ小さかったと話します。
子供たちはソ連軍がくると、ものすごく怖がりました。
おびえる子供たちを、杉本さん一家が抱きしめて「大丈夫よ」となだめていたそうです。
でもある日、ソ連軍が来たとき、いつものようにおびえるこどもたち。
そして愛子ちゃんが突然
「ギャーーーー!」
という断末魔のような叫び声をあげたそうです。
そのまま愛子ちゃんはお姉さんの腕の中で息を引き取りました。
あまりの怖さに、ショック死でした。
まだ3歳のこどもです。もう、3歳の子供です。そんな幼い命が失われる戦争。
愛子ちゃんのお母さんのやりきれない思い。
死んでいったのは、子供たちだけではありませんでした。体の弱いお母さんも死んでいきました。
発疹チフスという病気がはやったとき、お母さんは寝ずに若いお母さんの介抱をしたそうです。幸い若いお母さんは、病状がよくなり元気になられましたが、杉本さんのお母様は、自分が発疹チフスにかかってしまい、息を引き取られました。
「どうしておかあちゃまが死ななければならなかったのよ!!!!!!」
1枚の布団で2人で寝ている横で冷たくなっていくお母さんを抱きしめながら、まだ10歳の杉本さんはそう叫んびつづけたそうです。
そしてそのすぐ後、2番目のお姉さんも、結核でなくなります。
「でもね、焼いてくださったんですよ。もうそれがうれしくてうれしくて」のど仏の骨だけもって帰ることができたんです。
-私なら。お母さんが目の前で焼かれているところを見るのが1番悲しいかもしれない。それをあんなにうれしそうに話すなんて。
わからなかった。
ついに奉天から帰国船がでる。日本に帰れる!となったとき、杉本さんは満人に連れ去られそうになります。
それを必死で止めてくれたのはお姉さんでした。お姉さんは当時22歳私とほぼ同じ年です。それができるのか。私は、そんなに気丈であれるのか。
満人は日本人の子供を連れ去ろうとしました。お金で買おうともしました。とにかくほしがったのです。ろくにご飯も食べさすこともできず死なせるくらいなら・・・と、決意し満人に子供を渡したお母さんも少なくないそうです。中国残留孤児問題にそんな歴史があったなんて。
初めて知った。
そんなことばっかりだった。結局シベリアからかえってきたおとうさんもお兄さんもすぐになくなります。
杉本さん一家で生き残ったのは2人だけ。
日本へ引き上げようとした70人のうち、日本の土を踏むことができたのはたったの20人だそうです。
戦争で死んだ人は、鉄砲にあたったひとだけじゃない。そんな悲しい現実を前にただ、自分と置き換えて考えてしまって悲しくなりました。きいているのが辛い。そんな取材でした。
1つの家族を通して見える戦争。人間の本質的な姿。それは現代を生きる私たちにとって、知らなければならない。しかし知る機会がない事実なのではないでしょうか。
そして、中学生に伝える授業のためのミーテング。
中学生に伝えるためには?実感がわく授業にしよう。中学生がそれぞれ「戦争」を、自分のこととして捉えないと、きっと流れていってしまう。そんな気がしました。
あとは、「顔の見える戦争」を伝えたいというのも、ありました。
何十万人がなくなった戦争じゃなくて、「○○さんがこんな風に亡くなった戦争」で認識してほしいそんな話し合いの末、「人生を奪う戦争」を伝えようという話になりました。
取材されることは思ったよりも自分が追い詰められました。
どうしてそうおもったの?なんで?と質問され、自分に問い直すうちに、自分がわからなくなっていきました。
100点の答えをする必要はないんだけど、どんどん自分がわからなくなるうちに、今しゃべっていることは本当の自分なんだろうかなんて、思うようになりました。
本当の自分なんだけど、本音がどれかわからなくなりそうでした。
自分は思ったことをしゃべれてるんだろうか。kさんの悩ましげな表情をみると、ますますわからなくなりました。
でも、そんな時救ってくれたのは音声のyさんでした。しゃべっていることが迷走しだして、自分でもわからなくなっていくとき、ふとyさんの顔を見上げると、笑ってくれました。それだけで、落ち着いてしゃべりなおすことができた気がします。
きっと、デイレクターはわかっていても、カメラに写るまで、言葉になるまでは、わからないフリをしなくちゃいけない。
だから取材相手とはいつも完全に心を通わせているわけではなくて。通わせていないときもあって。でもそんなとき、取材相手は取り残されていく。
だからその空間の中に一人でも
「わかるよって」笑ってくれる人がいれば、すごく安心するし、落ち着いてしゃべれるようになるんだと思いました。
自分も取材ができるようになったら。音声さんにお願いしようと思う。取材相手の声を聞いている音声さんは、わかってあげてください。そして笑ってあげてください。と。
自分たちもそんなチームプレイをしたいと思った。
そしていよいよ学校に行く日。
中学生には伝わったのだろうか。正直わからない。
私たちにしかできないことはできたんだろうか。
疎開船、対馬丸に乗っていた、上原さんのはなしから、私たちにしか聞き取れなかったことは?それを、そのまま伝えたらもっとつたわったんじゃないか。と反省している。
私たちにしかできないことってなんだろう。取材はNHKがすればいい。授業は先生がすればいい。じゃあ私たちにしかできないことは?
聞き取りにいって感じたこと、思ったこと聞いたことをそのまま話すこと。語り部になること、そおいうことなんじゃないかな。
だからもっと、自分たちが感じたこととか、なぜ、戦争はいけないと思ったのかを整理して考えたいと思う。
それはきっと、戦争体験だけじゃない。戦争体験を伝えてくことは手段として。
最後に、小堀さんが取材前に言われたことを想い出す。
「お互いに後悔のない取材にします」
取材されてよかった。
それは、テレビに映るー!とかいう短絡的な理由ではなく。
私たちの活動の意味や役割。
私たちにしかできないこと。
聞き取りにいったからこそできること。
その本質的な役割について深く知ることができた。
本当によかったと思う。心から。
ドキュメンタリーの取材とは、究極的にいうと、そおいうことなのだと思う。単に、取材されてテレビに映るしよかったー!ではなくて、
なぜ?を繰り返されることで。事の本質や自らの志を確認できる。
何のために?誰のために?どうして?そんな疑問をぶつけ続ける。ことで意識できていなかった本質。志。
そんなものが見えた気がする。
だから、取材してもらってよかった。
「あなたたちを取材できてよかった。」と、kさんは言ったそうだ。
取材相手も自分も双方が後悔しない取材を私めやって生きたいと思う。
貴重な経験に感謝。
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