映画を創ろう!って思ったとき。
カメラの回し方も、分からなかった。
インタビューの仕方も、知らなかった。
でもあたしは、監督がしたかった。
もとABCで今はフリーカメラマンのGさんに指導をお願いした。
『ええか、監督はな、最後までバスに乗ってるんや。脚本家を乗せて、降ろして、レポーターを乗せて、カメラマンをのせて音声のせて、降ろしたら、次は編集マンが乗ってくる。最後まで乗ってるんは、ディレクターだけや。孤独な仕事やで。
けどな、
最高におもろい仕事や。』
Gさんが、求めるレベルはプロ級で。
『ええか、とにかく撮れ。多少乱れてもいいから、とにかく撮るんや。監督はな、カメラのよこにへばりついとかなあかん。取り逃がすぞ』
『監督が責任もつんや。いいもんが出来上がらんかったら監督のせい。』
『マネジメントやで。監督は。』
『こんなんやったらあかん。構成案、あしたまでに書き直せ。』
『取材先は3つほど
多めに抑えとけ。潰れるから。』
取材先の決定、取材、アポ取り、構成案、台本、、、、連絡連絡連絡。
あの頃は本当に忙しかった。
更に、MBSによる密着取材。
鹿児島のあとすぐ沖縄に取材にでた。
プロジェクト全体のスタツアも兼ねてたから、それは、もう、大変で、、、。
そんなとき、なほとたえはフォローしてくれた。なほは、取材局リーダーとして、他部所との連携や、取材先も分担して連絡とってくれた。たえは、交通費関係を全て請け負ってくれた。
かおりんは、何時間でもカメラを回してくれた。
本物を要求し続けたGさんのおかげだと思う。
『監督は、現場で全ての責任を負う。』
Gさんは、あたしにそう言い続けた。
沖縄での取材は、本当にハードで、
特に休憩する時間もなく睡眠時間もなかった。
けど、あたしが監督としてひっぱっていかないと。
雨のなかでも、取材をした。
伝えたい。
という気持ち以外に、
Gさんに、認めてもほしかった。
沖縄での最後のロケが終わったあと
私は倒れた。
奇しくもそれは、女子学徒隊のお墓の前だった。
ホテルに戻って、打ち上げにも行かず寝込んだ。
熱は40度を超えて
遂にホテルの人がタクシーをよんだ。行き先は
沖縄の緊急病院。
こんちゃんと、ぼくぶしがきてくれた。
長い夜が、始まった。
沖縄で唯一の緊急病院は、ごった返し。
なかなか、みてもらえなかった。
しんどいー。を、何回つぶやいたことか。
ようやく点滴をしてもらえたときには、深夜2時を回っていて
こんちゃんは、不眠で介抱してくれた。
人生で一番しんどかった。
本当にしんどかった。
点滴で少し回復したあたしに、
こんちゃんは、ゼリーを2つ買ってきてくれて、
2つともあたしにくれた。
そういえば、昼から何も食べてない。
朝。
入院してくださいと
言われた。
いや。あたし奈良県民なんで、奈良に帰ります。笑
といった。
でも、熱で飛行機に乗れなかった。
ようやく奈良についたらすぐに
入院した。
急性腸炎と、腎盂炎を併発して盲腸になりかけてた。
なほとたえがお見舞いにきてくれた。
仲間だとおもう。
いい作品を創るのは。
ひとりではできない。
仲間が必要だ。
だから今回も、大好きな仲間と
乗り切りたいんだ。
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