つづき


Factfulness “ というこの本は、名もないアフリカのひとりの女性に捧げられています。
ハンス・ロスリングは余命いくばくもないと宣告されたのを受けてこの本の執筆を始めたようですが、そのせいか、講義では聞けない失敗談や踏み込んだ話が後半に連続して出てきます。

国連の医療関係の仕事で、当時ザイールと呼ばれたアフリカの現コンゴにある村での出来事。
説明不足の状態で、新種の病気の研究のために村人の血液を採取したいと言ったとたん、彼とその通訳は 50 人くらいの血気盛んな連中に取り囲まれます。なかには手にナタを持って、完全にロスリングを殺そうとしている者もいました。
ロスリングは弁明します。君たちの血液を研究して、流行りつつある新種の病気を未然に防ぎたいんだ、と。しかし村の男どもは信用しない。血液は商売になる。オレたちの血を集めて売りさばき、儲けようとしてるんだろう。やっぱ、殺そう。男たちは詰め寄ります。

そこにひとりの母親が割り込みます。
この人がくれたワクチンで、ウチの子どもたちは病気を免れた。村の誰ひとりとして助けられなかった子どもたちを、死んでゆくのを見守るしかなかった私たちに代わって助けてくれたのは、この人がくれたワクチンだった。
ワタシには難しいことはわからない。けれども彼の国ではこうして血を集めて研究することで、ああいうワクチンを作ることが出来るのだろう。だから、彼が今、新種の病気に対抗するためにワタシたちの血が欲しいというのは、とてもスジが通っている、とワタシは思う。だからワタシは彼に協力するよ。
そう言って、彼女は最前列に立ち、血液採取のために腕を差し出しました。後に村人たちが続き、過激派の男どもは後ろで霧散していきました。

ロスリングは、おそらく彼女は文字さえ読めない教育レベルだったろうと推測しています。それでも彼女は理性的で聡明だった。そのおかげで、ロスリングは命拾いをした、と明言しています。

ロスリングが知性と呼んでいるものは、おそらくはこうしたものです。いついかなるときも冷静に理性的に判断する能力。
学歴とか、単なる情報とも違う。本の中では、さらに踏み込んで、講義では物議を醸し出すであろう、社会の改善には政治体制すら関係ない、民主主義である必要さえない、と主張します。なぜなら、数値が証明しているから。共産主義体制の中国や、軍事独裁体制だった韓国が、ちゃんと経済成長したではないか。

先入観でモノを見るな。数字を検証せよ。

しかし、彼はまた、数字を無視して世界を語ってはいけないが、世界の全てが数字でわかると思ってもいけない、と言っています。特に若者に対しては、自分の目と耳で世界を観察してくることを勧めています。
大人の抱いているアフリカのイメージとか、発展途上国とか、既知のものと自分が思い込んでいる知識・概念がいかにアテにならないかを知るためにも。


私は比較的、現代の若者の肩を持つ傾向があると自覚していますが、この点はハンス・ロスリングと同様、若者に要求したいと思っています。

自分の五感と直感・霊感、知識・感性のすべてを使って、体当たりで世界を知ろうとしてもらいたい。他人からのまた聞きや、本やネットの活字からは、君の世界は見えてこない。
そんなことはもう知っている、わかっている、という気持ちが邪魔なのだ。そのままでは、君は、過去誤りを繰り返した大人たちと同じ道を歩くことになる。本当にそうか、自分が考えていると思っているその内容は、本当に君のオリジナルの考えなのか? 誰かの借り物ではないのか?
部屋にこもってばかりいないで(こもることが悪いと私は思いません)、自分の手足・身体を使って世界と対峙してごらん。
そうしないとわからないことが沢山あるんだ。


こうした本で英語の授業をやりたいな。
教科書は使いづらいし、何よりもつまらない。答えの決まった議論など、議論と呼ぶに値しない。そういえば、我々の時代にはレイチェル・カーソンの “ Silent Spring “ とか引用されてたよなぁ。思えば遠くへ来たもんだ…


RIP. ハンス・ロスリング氏のご冥福を。
知性を生きるというのは、彼のような人生を過ごすことだと私たちに示してくれたことに感謝を。


この項  了