つづき


桜のあとには藤の花が咲く。この花を見て、あなたは何を思うでしょう。




絵師ならば、藤の花が引き立つ構図やタッチについて考えるかもしれない。染物屋ならば、この上品な藤色を、どうしたら反物に実現できるか、染料と着色技法について考えるかもしれない。
国文が専門ならば:

"春日野の藤は散りにて何をかも み狩の人の折りてかざさむ"

という万葉の古歌を想起する人もいるかもしれません。




数理物理が専門ならば、垂れ下がる房を見ながら紡錘曲線(カテナリー曲線、懸垂曲線とも言います)の公式を背後に見るかもしれません。工学的な視点があれば、逆カテナリーで構成されたサクラダ・ファミリアを思い出す人もいるかもしれない。
土木建築者ならば、支える藤棚の方に興味があるかもしれない。単純に植物の荷重に耐えるだけでなく、風雨にさらされても揺らがない強度を確保するにはどう設計したらよいか。




哲学風に言うならば、同じ「藤の花」を見ながら、我々はその背後に異なったイデアを見る。そうした見方こそが間違いであり、禅の一派の主張のように、一切の背景知識を抜きにただそこに藤の花があるという「実存」にしか意味はない…と考える人もいるでしょう。




どれでもいいのです。
功利主義的、プラグマティックな立場に立つ私は、人に迷惑をかけず本人が幸せになれるなら、各自の好きな考え方で見ればいいじゃん、と思うのです。
同じ花を見て、同じように思う必要なんてない。そんなのはつまらない。違う感想を持つからこそ、他人に興味を抱く。その結果、その人を好きになるか嫌いになるかは、また別の話です。

それなのに、他人に自分と同じ感想を求め、そうでないと腹をたてはじめる人が多いのは、なんとかならんもんですかね。


つづく