つづき


マーラーの様式選択のチグハグ感は、ある程度は時代精神(Zeitgeist)によるものです。時代が下るにつれ、より大きなコンサート・ホールで音楽は演奏されるべき、と彼は信じていました。
その結果がベートーヴェンの弦楽四重奏曲11番"セリオーソ"やシューベルトの『死と乙女』のオーケストラ編曲であり、大編成のオーケストラ用に加筆・変更されたベートーヴェンやシューマン、ブルックナーの交響曲でした。マーラーは、かつての名曲を書き換えることに躊躇いのない人でした。


これは、マーラー自身がオーケストラをあずかる指揮者であったことと関連があるのかも知れません。
19 世紀を通じて、オーケストラは肥大化する一方でした。金管楽器の改良進化に伴って音量が増大し、それに対抗するために弦楽奏者が大量動員される。大所帯になったオーケストラの財政を賄うには、コンサートで客を大量に呼び込むしかない。大規模ホールで演奏するためには、モーツァルトやベートーヴェンの交響曲にも迷わず加筆補正する。同時に、大規模オーケストラだからこそできる新しい音楽を発明する必要があった。
こうした問題は、純粋な作曲家の立場からすれば瑣末なことだったでしょう。しかし、オーケストラの運営にも深く関わっていた指揮者の立場からすれば、無視できない深刻な状況だったと考えられます。
例えば、ベートーヴェンの交響曲にはチューバは必要ありません。けれども、オーケストラにチューバ奏者がいなければ、チューバを必要とするワグナー以降の音楽はできない。一方で、チューバ奏者をオーケストラに採用するならば、チューバを使った音楽を演奏しなければ、給料を支払う意味がない。外部契約の形をとり、必要なときだけ呼ぶこともできますが、チューバを使う演目がなければ、それはチューバ奏者の失業を意味する。
音楽が多彩になり、楽器が進化していくほど、新しい楽器を用いた新しい曲が生まれてくる。多様性を獲得すればするほど、恐竜のように肥大化するオーケストラの維持管理が難しくなる。ならば、すべての音楽を巨大オーケストラ向けにアレンジしてしまえばいいではないか…


皮肉なのは、彼自身の音楽が、この考え方の第一の被害者のように見えることです。
加筆補正されたベートーヴェンたちの音楽は、古楽器演奏のトレンドとともに修正されてきました。これらの音楽を大規模オーケストラで演奏することはできますが、それでも原典重視の解釈を踏まえたうえでの演奏になるでしょう。つまり、ベートーヴェンたちの音楽は、演奏・解釈の多様性を獲得したのです。
しかし、マーラーの音楽は最初から大規模オーケストラ用に書かれている。一方で、彼の音楽にはとても繊細微妙な私的な感情が内包されている。これが摩擦を起こす。なんでも古楽器で演奏する現代のトレンドでも、ブルックナーやマーラーを古楽器で演奏しようという酔狂者はいまだに現れません。ブルックナーはまた別のケースですが、マーラーの方は、この巨大な矛盾こそが彼の音楽そのものだった節があります。


西洋音楽全体が、彼とフランス学派によってひとつの頂点を築き、そのあと縮小するように見えてくるのは気のせいではないでしょう。マーラーは、絵画で言うのならばセザンヌ・ピカソの位置にいる音楽家でした。その熟れきった果実を味わいつくすひとつの方法が、マーラーのピアノ伴奏版の歌曲かもしれません。

マーラーとは、シューベルトの魂をワグナーの技法で表現しようとした作曲家でした。西洋音楽のひとつの終着点と言えるかもしれません。
カツァリスの演奏は、こうしたことを教えてくれるという意味でも、一聴の価値があります。


この項  了