つづき
マーラーの交響曲は、すべての楽章を理解し好きになることが、個人的にとても難しかったりします。例えば、最もタイトな作りであろう第5番交響曲でさえ、第1楽章と第4楽章だけで十分ではないかと感じることが多い。そうでなくても長いし。
『大地の歌』ならば、最初と最後の楽章だけで中の楽章はいらない気がしていたものです。そもそも最終楽章だけで、その前のすべての楽章を合わせたよりも演奏時間は長い。冗長すぎると思われても仕方ない作りになっているのです。
ところがピアノ伴奏版の『大地の歌』では、中間の第2〜4楽章にも芳醇な音楽が詰まっているとわかります。まるで熟れきった果実のような甘美な音の氾濫。人生の後半生に獲得した、快楽(けらく)の境地。
考えてみれば、マーラーが引用した中国の詩人たちやその作風の根底には神仙思想があります。酒を友とし世捨て人となり、すべてを達観して生きることを賛美する。日々の生活のあれやこれやに振り回されることなく、陶然とした酔いの境地の中で死を迎えることを良しとする。
この詩的メッセージと大オーケストラの伴奏は矛盾しています。そもそも神仙思想とは大声を張り上げて絶唱しながら主張するようなものではない。ひっそりと、しかし決然とした心のありようがなければ、例えば最終楽章の王維の詩の境地にはならないのです。
なるほど、私が個人的に感じていたマーラーの歌曲や交響曲に対する違和感の正体は、ここにあったと始めて自覚的に感じたのです。
そう、室内楽として『大地の歌』をとらえると、素晴らしく魅力的になる。
およそ 500 人くらいでいっぱいになる小ホールで、声量はそんなになくても細やかな表現ができる歌手。それを支える知的なピアノ伴奏。聴衆も、気心の知れた友人や知り合いで構成された、ささやかなリサイタル。そんな環境でこの演奏を聴けたのなら、なんと幸せであることか。きっと、身体中の細胞に甘やかな香りの音たちが沁み渡るような体験になることでしょう。
様式と内容が合致し、すべてが収まるべきところに収まった芸術は、それだけで力強いオーラを放つものです。
生への告別というテーマならば、家族や親しい友人にお暇の挨拶をしておきたいとは思うでしょう。不特定多数の見知らぬ人々に大声で訴えかけるようなものではない。それは見苦しい。こじんまりと、わかってもらいたい人にさえわかってもらえればいい。「さよなら」の価値は、安売りして暴落させてはいけないものです。
マーラー 自身「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」という考えで、墓碑銘に名前以外のものを刻むことを拒否しました。
だとすると、様式のチグハグ感は、やはり作曲家自身の問題点だと思えてきます。
つづく