つづき


ベヒシュタインのピアノの音は独特です。
個人的には、スタインウェイが鉄琴、ベーゼンドルファーが木琴だとすると、ベヒシュタインの音はグラス・ハープみたいな手触りがあります。なんだか、かえってわかりにくいかもしれませんが。

例えば、左手で和音を鳴らしたとすると、現代的な基準では、内声まで聞き取れるようなスッキリとした見通しの良い音が好まれます。
ベヒシュタインでは、どちらかというと倍音を豊富に含んだ音のせいで、和音がクラスタ(音塊)状態になる傾向があります。にもかかわらず、右手で単旋律をかぶせても、硬質な音の旋律は埋もれない。まるで、きらびやかな彩雲の絨毯の上を旅客機がまっすぐに飛びたっているかのよう。音の色彩感が豊かで、小さなガラス細工がキラキラと瞬時に弾く色を変えていくみたい。
音の混ざり具合、分離の具合が独特で、なるほど固定のファンがつくわけだと得心しました。


しかし、音質・音色と音楽的な内容は、また別の話です。
まずは学生時代にパスしていた、カツァリス演奏のベートーヴェン交響曲・ピアノ編曲版を聴きました。面白い。特に2番や4番みたいな埋もれがちな名曲では、作曲家の音設計の適切さ・巧みさがわかりやすくなり、とても楽しい。こんなに楽しい演奏を聞いてこなかったなんて、なんてもったいないことをしたんだろう。
そう思い至ったら、聴きホーダイサービスの出番です。聞いている中で、マーラーの『大地の歌』のピアノ伴奏版の演奏がありました。



なんて素敵な演奏。
マーラーはウィーン・フィルを指揮していただけあってオーケストレーションは極めて巧みなのですが、こうしてピアノ伴奏版と聴き比べてみると、歌モノとしての『大地の歌』はピアノ伴奏版の方がバランスが取れている気がします。

オーケストラのむこうを張って歌手が絶唱するのは、それはそれで爽快感があります。しかし、一方で細やかなニュアンスの差異は付けづらくなる。訓練された歌手ならばそれでも表現に支障をきたすことはありませんが、絶唱を聞いているこちら側も力が入ってしまうのです。
ブラームスやマーラーあたりの後期ロマン派の音楽解説では、作曲家の個人的な事件や感情を引き合いに出して曲を解説することがよくあります。『大地の歌』も死期を意識した作曲家が、この世界に告別する思いを込めた曲だと説明されます。
こうした解説を聞くたびに、そういうこともあるかと納得する一方で、何千人も集めて数時間拘束し、作曲家の個人的な嘆きやつぶやきを聞かせているのだとすると、途轍もなく迷惑な話にも思えてくるのです。自意識過剰すぎない? あなたの個人的な悲しみが、私たちになんの関係があるの?

オーケストラを駆使して大ホールで演奏するなら、なんらかの普遍性・公共性を志向した内容であってもらいたい。個人的な感情ならば、ピアノ曲なり室内楽なりの様式がある。妻が裏切ってあなたが傷ついた話など、大勢集めて聞かせるようなものじゃないでしょう?
音楽的な内容と様式がチグハグになる。
これは作曲家のせいなのか、無神経な解説をする紹介者の無教養が原因なのか? それとも、芸術といえば、作者の個人的な感情・思考で構成されていると信じ込んでいる俗物主義のせいなのか?

これは実は、芸術論的にもっと真剣に議論すべき根深いテーマだったりします。
現代日本人は、この議題を逃げ回っている気がするのです。


つづく