つづき
ホドラーは、写実的な作風から始まり、クールベなどの影響を受けつつ、一時期「死」のテーマにとりつかれます。身内の不幸が重なったことが理由だろうと言われていますが、絵が画家個人の感情や心理を語っているという点で、極めて現代的な絵画です。
この時期の彼の作品は陰々滅々。暗いなんてモンじゃない。チャイコフスキーやロシアの作家のある種の作品みたいに、なんでそんなに悲観的に物事を解釈するのか不思議になるくらい。暗さの中に、ある種の甘さを嗅ぎとり、そこで絶望することに開放感と心地よさを見出している点で、作家ならば太宰の手触りに近いかな、とも感じました。
したがって、1880 年代あたりから、これが一転して「生の喜び」の表現に作風が変わるときも、ちょっとした違和感が残ります。この人は、本当に問題を解決できたのだろうか? どんな経緯があって、この反転が起きたのだろう?
結果よりも、過程が知りたい。
作家の伝記的な経緯と作品は、必ずしもいつも一致するわけではありません。そもそも、作品を「作家の感情・思想の容れ物」とする考え方は、極めて近現代的なアプローチです。
それでも、ホドラーのように極端から極端へ作風が振れていると、警戒心が起きてきます。彼の内的な変化の合理性が保証されないと、危なっかしくて彼の芸術に身をまかせられない気がしてくる。激情家とつき合うときには気をつけないといけない。彼は強い言葉を使うけれども、一瞬後にはそれと正反対の内容を同じ情熱で語りはじめるから。
もし、彼の内部の変化をもたらすような劇的な何かがなかったのだとすれば、どうだろう?
対立しているように見える「死」と「生」は、内的な本質の変化を意味しない。そうではなくて、変わらない内面の、表層的な表し方が変わっただけだ。縦の時間軸で解釈しようとせず、両方に共通して見られる特徴を追ったほうが、この画家をつかめるのかもしれない。もっと鳥瞰した視野を確保すべきなのか…
などと考えながら観ていたら、ほとほと疲れてしまいました。絵の方が理屈っぽいので、こっちもあれこれ考えさせられてしまうのです。
ドイツから東欧にかけての芸術では、これに近い体験をよくします。感覚的な愉悦ではなく、思考パズルに投げ込まれたような理屈っぽさ。そこから、数学の美しい公式が生まれてくるあの瞬間の感動を、ひたすら待っているような生真面目さ。
いい人なんだけれども、付き合うのは疲れるかもしれないなぁ……
つづく