原園さまよりシェア


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*言靈(數靈)①ひふみ祝詞は古より伝わる最強の祝文
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大東亞戰後、GHQが日本人の精神性を劣化させるために取り上げたものの一つに言靈・暗誦の文化があります。断糖(米)肉食による獣化作戦や、3S(一億総白痴化)政策の影響も精神性の劣化に一躍駆ったことは確かです。しかし、これらの洗脳政策も根本となる靈的知識により心と魂の土台がしっかりしていれば、ひっかかることもなかったでしょう。やはりこの靈的知識を彼らの下辺である政府やマスコミが完全に封印し、教育が「狂育」と化してしまった意味は大きいと思います。
ですから、漢字(形靈)もそうですが、みなさんは言靈、數靈についても一個一個取り上げられていったものを元に戻していってください。

今日は5500年前のカタカムナ文字から伝わる「ひふみ祝詞」の心を取り戻していきたいと思います。

「ひふみよいむなやこと」「とこやなむいよみふひ」。千も二千も言えるはずですよ。我々は言ってたんです。「ひふみよいむ」これは単なる数字じゃないんです。一文字、一文字にちゃんとした意味が込められています。百まで日本人だったら言えないといけないんですよ。何で我々はひふみよも言えなくて、1、2、3て言わされたんですか。この辺全部ですね、腹がたってきますよ。

「ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおゑ、にさりへて、のますあせえほれけ」。

このひふみ祝詞(のりと)には健康を維持するための教えが込められています。

太陽や星から届くエネルギーを最初に受信するのは皮膚です。「ひ」は光の火で太陽光線が全ての生物を成長させているので、ひふみ祝詞の始まりを「ひ」といいます。「ふ」はふたつの「ふ」で宇宙の法則である「膨張と収縮」のことを言います。星の「ほ」は稲穂の穂先のことで「米」のエネルギーが一番高いという意味、転じて一番。「し」は仕事。したがって星は「一番の仕事」となります。

「ひふみ」の「ひふ」は皮膚のことで、「み」とは中身の身、または水のことです。海水は蒸発して山にぶつかり雨となります。その水を植物が吸収し、成長します。植物を食べて虫や動物が育ち排泄したものは川を介して海に戻ります。水はすべてを知っています。地球の70パーセントは水ですから水が地球の本態なのです。

つまり、米、水、海塩、植物を摂ることが健康維持に不可欠であると古代では既に説かれています。

ひふみ祝詞は、5500年前のカタカムナ文字の八咫(やた)の鏡が大元です。「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とう」が人の生き様を表していて、「ひー、ふー、みー、よー、いー、むー、なー、やー、こー、とー」は人間界での循環構造を順番に説いています。

「ひ(靈)」とは、靈止(ひと)になるにはという意味。「ふ(分)」たつとは、「た」の膨張と収縮が発生し、男性性と女性性、プラスとマイナスという逆向きのベクトル、陰と陽という性質に分けられるという意味です。「み(身)」とは靈エネルギーから分かれた質を異にする要素が、今度は合體調和して「身」や「実」や「水」へと進化します。「三つ子の魂百まで」とも言われるように、人間として「やるべきことへの意志を持つ」ことになります。

「よ(世)」でようやく一つの法則性の下、世の中に展開されました。そうした段階的産靈(むすび)のプロセスを持つ世の中のすべてに、大生命の「い(意)」を感じます。また、その代行者が「わが意(こころ)」であるという認識が神人です。意とは、太陽の心に依って立つ、と書きます。丸くて光を放ち、その無限の供給が意の本質なのです。「む(睦)」は世の中の個々の魂の共鳴状態です。志したものが挫折すれば「む」の無駄になり、成功すれば「な(成)」ってでることになります。「な」は雛人形の「ひな」で、ホツマ文献では「靈止(ひと)になる前」という意味もあります。

「や(弥)」は喜びであり、乗り合った乗船者、つまり七福神同士の相互の喜び合いであり、その乗船者という魂の靈団が大生命意志に向けて、感謝の矢を放つことです。成功者として金も名誉も手に入れた靈止(ひと)が「転がる」のが「こ」です。八咫(やた)の鏡の中に、「こ」の文字が入ると「や」と「ひ」との小丸が外に追い出されます。「の」の野原に出た玉はコロコロとどこまでも転がります。これが「こころ」の語源です。

「こ(凝)」は9です。「多い」という意味。「つ」は入るという意味で、合わせると「こつ」になります。「こつ」をつかんでいる靈止(ひと)は、どの分野でも成功します。

「と(統)」は、ありがとうの「と」と同じです。「ここのつ」でこけた靈止(ひと)が立ち直り、残りの人生を靈止(ひと)のために使うと頭の天辺(てっぺん)の戸「百会(ひゃくえ)穴」が開き、宇宙と交信できる靈止(ひと)になります。

つまり、物質世界で利己的なお金や名誉をいくら求めても、結局は転がりこけてしまうということです。そこから立ち上がり、「いまここ」を生かされていることに「ありがとうございます」と感謝をする。そして、残りの人生・命を利他、靈止(ひと)のために使うことで初めて、霊性が進化し、カルマが精算され、輪廻転生の観覧車から降りられる。そうして悟りを得た本来の靈止(ひと)こそが、宇宙と交信できる高次元のステージへと進めるということでしょう。

一(ひ)、二(ふ)、三(み)、四(よ)、五(い)、六(む)、七(な)、八(や)、九(こ)、十(と)と両手の指を折り重ね、靈(ひ)から統一世界の十(と)までを、つまり宇宙眞理をたぐり寄せて掌握する作業を「御手繰(みてぐら)」と言います。そして宇宙を掌握したこの形を「和幣(にぎて)」と言います。

しかし、宇宙法則を握っているだけでは意味がありません。自分自身が亞神として、それを活用し、万物に波及することが重要なのです。それを「起きて」と言って、今度は「とこやなむいよみふひ」と両手の指を起き立てます。つまり掟とは、神として良性な言靈を放ち、行為・展開することなのです。

和多志は毎日、「ひふみよいむなやこと」の暗誦をやります。声に出すだけではなく、指つきで。指先を動かすとボケないじゃないですか。おばあちゃんでも裁縫とか得意な人はぼけないですよね。脳と指先は一緒に動かさないといけないんですね。禊(みそぎ)と襷(たすき)という。

「ひふみよいむなやこと」「とこやなむいよみふひ」を三回は言う。指で交互に(左の親指から「ひ」、右手の小指から「ふ」、これを交互に)。暗唱するだけでも非常にいいです。このとき古代文字を思い浮かべるともっと良いようです。

神社の月次祭なんかで、祝詞を聞いた時に、なんかこう胸の中から熱くこみあげてきた記憶がありませんか?あれと同じで日本人の奥底には言霊に反応する魂が眠っているはずなんですよ。だから、「ひふみ」を唱えて、來たるべき時に備えて、本來の日本人としてのDNA・意識の覚醒をやられるといいと思います。

(参考文献)
・片野 貴夫著 『ぜんぶ人體で確かめた「神代文字」言靈治療のしくみ』
・鈴木 俊介著 『御靈(みたま)の法則』

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*目で見える行動と目で見えない意識という両界をつなぐのが言靈
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わたしたちの脳の意識をまとめているのは「言靈」です。もし言靈がなければ、脳内の思考はまとまらず、「わたし」とか「どこへ」すら定かではなく、一切は混沌となります。「好き」も「嫌い」も「海」も「山」も分別できず、意識はただ無自覚に虚空に漂うしかなくなります。

弘法大師・空海は「身(しん)・口(くう)・意(い)」という三位一體の教えを後世に残されました。「身」つまり行為、「意」つまり心であり動機・意志の二者を繋ぐのが、「口」・言靈と言えます。同時にそれは見える世界の「肉體世界」と、見えない世界の「精神世界」をつなぐ橋渡しが、「言靈」であるということです。「神意(あい)しているよ」の言靈も、「ありがとうございます」の言靈も、それを放つことで、意志も定まり、神意(あい)の目標に向かって力強く前進することができます。神道では毎朝、祝詞(のりと)をあげますし、仏教ではお経を読みます。その発声、つまり心魂からの響きである「言靈」が大事なのです。

創世記にいう「はじめにコトバあり、コトバは光なり、光は神なり・・・・」このメッセージを素直に、受け取るべきではないでしょうか。ここでいうコトバとは創造神の属性をもつ、純正にして、神意(あい)あり、全調和のとれた言靈波動です。その純正なエネルギー波動が、宇宙の進化になくてはならない基本的なエッセンスとなっているのだと思います。

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*宇宙の根本原理はことば
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インドの哲学書ブラーフマナ文献や最古のウパニシャッドでは、宇宙の根本原理ブラフマンというのは、「もの」ではなく「ことば」(眞實語)と記されています。また、ヴェーダ聖典のことばは、「マントラ」とも呼ばれることがあります。「マントラ」は密教の呪文を表すことばとしても用いられ、漢訳では「眞語」とされます。
また、キリスト教の「新約聖書」のうち、「ヨハネによる福音書」の冒頭には、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は初めに神と共にあった。万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらないものは何一つなかった」とあります。
プラトンの哲学でも、概念・ことばの世界こそがイデアであり、わたしたちが現実世界であると思っている感覚世界は、イデアの影に他ならないとプラトンは主張するのですから、(眞實の)ことばが世界を創ったという考えと距離はほとんどないといってよいでしょう。
さらに、わが國の「忌みことば」のことを考えればわかりやすいのではないでしょうか。たとえば、結婚式では「別れる」「切れる」ということばは使ってはいけないとか、受験生の前で「落ちる」「滑る」は禁句だと言われています。世界中の多くの民族はそうした「忌みことば」という考えを持っています。

(参考文献)鈴木 俊輔 「ことだまの科学」 人生に役立つ言靈現象論

數靈、言靈、色靈、形靈 出揃いて
汝が身に 流るる 音靈のせれば
光透波(ことば)となりて 天音(あまね)く 照らす

(※)1ひ・2ふ・3み・4よ・5い・6む・7な・8や・9こ・10と は、日(靈) 風 水 土 草 虫 魚 鳥 獣 人とも書くことができ、地球創世の順序を表す。最初に太陽・靈があり、風(大氣)が生まれ、水と土の部分に分かれ、土からは草が生え虫が生まれ、水には魚が生まれる。空には鳥、そして獣が生まれ、最後に人が出来たと捉えることもできる。









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*老子の言葉 其の七十七
「天の意志は細部にまで貫徹し海面の完璧な水平を保ちます
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天界がおこなう方法(道・眞理・法則)とは、弓に弦を張るときと似ています。高い所は押さえ込み、低い所は持ち上げます。弦の長さに余りがあれば短くし、弦が短くて足らなければ継ぎ足して補います。

天界の方法とは、このように余ったものを減らして、足らないものを補います。しかし、人間が行う方法はそうではなくて、足らない方を更に減らして、有り余るほうに奉納してしまいます。

どんな人物が、自分の有り余るものを社会の困る人々に奉仕するのでしょうか?それは道徳心を身に付けた者だけが、これをできます。

だからこそ聖人は、何かを成し遂げても要求はせず、大きな功績を上げてもそれに安住はせず、自分の賢さを他人に見せることを嫌がります。

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*老子解題
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これはまさに、コノ世での金の流れ、税金の流れを老子が表現しています。大海の海面とは、海底がどんなに深かろうと浅かろうと、常に高さが一定に調整されています。これが法則であり、天の意志だということです。しかし人間界では、金持ちには更に金が集まり、貧乏人からは更にお金が逃げる仕組みになっています。

天の意志とは、どこまでも細部にまで貫徹しており、海面のように水平を完璧に取ります。もし金銭が突出して多ければ、他の物事(健康・寿命・家族関係・・・・)などをもって調整され、金銭が少なければ、自分が氣付かない物事の自由が与えられているものです。それぞれにおいての一長一短をもって、完全に水平が保たれています。

だから、コノ世でコッソリと得をしたと思っていましても、自分が氣付けない物事で調整「されて」いるのです。大海を水平に保つほどの法則から、人間自身の生き方も逃れることは絶対にできません。これが見えない・分からないために人間は、他人を見ては心配心や怒り、不平不満を持ちます。しかし、そんな必要は一切無いし、それは限定時間(コノ世における人生)においては損なことなのです。だから、何があろうとも現状に感謝ができる人間が、コノ世では最もお得(徳)です。

この自分が氣付かない内に、天により完璧に調整されている事実とは、人間が最も畏れるべきことなのです。天が何事も水平にする力を緩和する方法が、道徳心を持って行う「行為」であり、自分自身を最終的に助けることに成ると老子は示唆しています。

人間は短い人生の間に、どんなに何かにおいて突出しようが、最下層に居ようが、すべての人間が平等に死を迎えて裸に剥かれて水平に戻されます。なんと畏れるべきことでしょうか。長い視点で見れば、やはり完璧に平等なのです。死後の世界も含めれば、一厘まで帳尻も合わされます。結局は、生きる間はどんな境遇でありましても、その中でも感謝をしていることが最も尊い生き方であり、最善なのです。そして、人間は「謙虚であれ」ば大丈夫なのです。

生かしていただいて ありがとうございます(^^)b

原文
「天之道、其猶張弓與。髙者抑之、下者擧之。有餘者損之、不足者補之。天之道、損有餘而補不足。人之道則不然、損不足以奉有餘。孰能有餘以奉天下。唯有道者。
是以聖人、爲而不恃、功成而不處、其不欲見賢。」



(出典)谷川太一著 「柔訳 老子の言葉 写真集 下巻」2013年 経済界