草津市渋川分離問題 | 義勇兵のブログ

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高校時代に芦原会館で空手を学び、武道・武術の研究がライフワークになりました。
趣味の少林寺拳法、羅漢拳法、ガンプラ、読書他色々なことを書いていきます。

城陽市のPTAや学童保育所の保護者会の改革を行っています。

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栗東市には学校に絡む興味深い問題の事例を紹介します。


栗東市の隣の草津市渋川は昭和29年頃現在の栗東市(当時栗東町)の治田村に所属していました。

しかし渋川の住民は草津市への分離合併を希望、様々な運動を行いました。

栗東町議会は昭和30年2月24日に渋川の請願を不採択としました。

同年8月27日滋賀県は分村の方針を説明、渋川の栗東町からの分村を認めざるを得ないとの方針を示しました。

しかしこれに栗東町は滋賀県に対し反発、栗東町議会は否決する旨通告、渋川分離問題は泥沼化しました。

そして昭和31年3月5日から中央農協渋川支所に区民相談所を設け、町助役と町議会議員一名とが毎日詰めて説得にあたりました。

しかし渋川では3月13日の草津小学校で開かれた1日入学に同区の児童38名を参加。また、3月20日には渋川住民200名が県庁に押しかけ陳情を行いました。


そして新年度になり4月5日の草津小学校の入学式には渋川の新入生34名が出席、学籍簿を作成しました。

一方栗東町は渋川児童に対し、治田小学校および栗東中学校の入学式の通知を送り、学籍簿を作成しました。


つまり渋川児童は栗東町と草津市の両方に入学したことになりました。

そして益々泥沼化しました。

そして4月中頃から自民党県連がうごき、調停にのりだし7月12日に滋賀県議会公舎で調停会議が行われました。

そして紆余曲折があったものの、7月28日になり、分離独立についての協定書が調印されました。

そして昭和31年9月1日正式に渋川は栗東町から草津市に分離独立。草津市渋川になりました。

こうしたことをみてみると児童たちが渋川分離独立問題に巻き込まれたことが分かります。

栗東市のPTA問題も大人どうしの争いに児童たちが巻き込まれており、早く解決したいと願っています。

参考
「栗東の歴史」近代・現代編 発行栗東町役場