今日は久々に平和が訪れ、本を読んだり英語を学んだりジロ・デ・イタリアをみたり夕寝をしたりアイスクリームを食べすぎたりした。
 峠は越したので、明日からは落ち着いた生活が出来るのではないかと期待している。
 あの1.2リットル洗浄剤(モビプレップ)は、内視鏡検査を終え帰宅し、夕食後あたりから活躍をはじめ、翌々日の未明まで影響を及ぼしていた。
 説明時に聞いた話では、1時間後には影響が出始め、3時間後にはほぼ終了、であったのが、実際には12時間後に影響が出始め、48時間後に終了という具合であった。
 どんだけ鈍いんだ。

 

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 野上弥生子の日記をぼちぼち読んでゐるのだけれど、色んな人が出てきて、とても勉強になる。苗字だけだと分からなかったりもするのだけれど。


 今日読んだところでは、織本(貞代)さんと共に成城学園の富市さんを訪問した記録が書かれている。
 織本さんは「労働女塾」を開いた人。

 帯刀貞代の方が名前が通っているみたい

この記事によると

教える科目は「学科(婦人と労働組合、プロレタリア経済学など)」、「裁縫(和服、婦人子供洋服)」、「手芸(編物、刺?、袋物)」、「割烹」であった。裁縫を主にしたのは女工たちの要求に応えた結果であった。塾は前番、後番それぞれ15人前後、合わせて30人あまりの人たちが多少の出入りはありながら続いていった。

 

 だそうである。


 訪問先の富本さんはフルネームだと富本一枝、旦那さんは陶芸家の富本憲吉。筆名の尾竹紅吉で『青踏』に随筆などを書いた。
 野上弥生子は訪問時(昭和6年)のことをこんな風に書いている。

「成城学園町はまへに二度見た時よりは一さう整ひ、美しい文化村を形づくってゐる。青い芝の築地、緑樹、洋風の建築、そこに住む人々の不足なき生活が語られてゐる」。
富本さんの「家はそれほど立派ではないが、お手ものの陶器や絵に飾られた室内は芸術的な香気と色彩に富んでゐる」。

 お昼を御馳走になるのであるが。

 「食器がすべて富本氏の製作になる立派な陶器なのが、その食卓を滅多にない贅沢なものにしている」。

 陶芸家だとこうなるのか。
 その他、富本憲吉さんより陶器を始めた話、リーチとの関係など色々聞いたそうだ。
(野上弥生子全集第二期第三巻 248-249ページ)

 野上弥生子の知り合いは、明治女学校関連、青踏関連、夏目漱石関連、旦那さん関連(一高、東大、法政大)と、僕からするとひどく豪華に見える。