家にポテトチップスが一カ月程お菓子の棚に鎮座しているのですが、いつ食べてやろうかとずっと狙っているのですがいつも「よし、たべてやろう。」と決心が固まるのが22時すぎで、さすがにやめとこうか。と手を引っ込めてを繰り返しております。
なんで高カロリーなものは深夜に食べたくなるんだろうな。
というわけで「お葬式のはなし」
年末年始はお葬式が多いもので、本日も縁ある方の通夜に参列して参りました。通夜は本当にいいものです。もちろん故人の方の亡くなり方が一番重要なところですが、老衰による死の場合は和やかな空気感があります。
喪主の家族は涙を流して、待合室では親戚のおじさんや近所のかたが久しぶりと顔を合わせて話をする。焼香の時は礼儀正しく遺族に頭を下げそれぞれの役割を勤める。実に日本人のいい習わしだな。としみじみ思います。
仏教の故郷インドでは通夜という文化はありません。インドでは仏教が開眼するずっと以前から輪廻転生という考え方が根付いておりますので、家族が死んだら悲しいですが必ず次の生が始まるのですからいつまでも供養したりもしません。
葬式というのはガンジス河のほとりで次々と遺体が運ばれてきて燃やされてガンジス川にながされます。ちなみにこの遺体を燃やしているところを写真に収めようとしようものならめちゃめちゃ怒られます。
毎日遺体が燃やされ、そして上流からは妊婦や子供の遺体が布にくるまれて流れてきます。娑婆で使った肉体は娑婆に還す。というのがインドの考えです。
葬儀というのは仏教が中国に渡り、儒教と合わさり今の葬儀の形になりました。そして日本にその文化がやってきます。
「葬式仏教」この言葉を堕落した僧侶を揶揄する言葉としてぶつける方がたまにいらっしゃいますが、それは大きな間違いです。10世紀ころに中国から入ってきた葬儀の文化は天皇家や貴族だけのものでした。
庶民はどうしていたかというと、遺体を時には道で火葬し、時には河に流し、時には鳥に食べさせていた。つまりインドと同じように自然に還すスタイルでした。
人々は思います。金や権力、地位、家柄がないと葬儀をあげてもらえない。私の大切な人の命はまた輪廻の輪の中に迷うのか、地獄に堕ちるだけなのか。
そうして興ったのが鎌倉仏教です。法然上人、親鸞聖人、日蓮上人、道元禅師と呼ばれる方々です。特に浄土宗は声高に庶民に説きました。人が往生するのに大切なことは、権力や地位、家柄ではない。ましてや男や女といった性でもない。
大切なのは「南無阿弥陀仏」だと説きまして、庶民の葬儀を受けていきました。こうして庶民に葬儀の門が開かれていったんです。
「葬式仏教」それは私たちの祖先が渇望し、叶えた未来です。
通夜に親戚、近所の方がきて顔を合わせる。焼香の時は慇懃と頭を下げる。そして葬式を迎える。
あなたの葬儀に悲しみで沈む人が少なくなるように自分の命を大切にまっとうしなくてはいけない。神田沙也加さんに手を合わせることしかできません。
南無阿弥陀仏
0120-176-152
法要から納骨まで













































