【劇評】Rising Tiptoe#17「皿の裏」 村野謙吉 | Rising Tiptoe

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Rising Tiptoe#17 「皿の裏」

村野謙吉(元『英文毎日』コラムニスト;現・武蔵野大学客員教授(仏教学・日本文化論)



作者によって生み出された作品は、作者の手から離れた瞬間に、すでに作者の所有物であることを拒絶して自己主張を始める。
女が子供を生むのは、子供と別れるためである。だから「生む」ことは、いのちの根源的不条理である。
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作品「皿の裏」も、作者は生んでしまった不条理を後悔してもはじまらない。
切符を買って劇場に入ってしまえば、どのように「皿」を舐めようと、裏を表と言おうと
観客の勝手だ。
そして、舞台終了の後には・・・批判の矢、称賛のラッパ、無視の沈黙、そして観客の去った後の、祭り終えたほのかなかなしみ。そして出演者たちの乾杯があるだろう。

では観客は「皿の裏」の不条理を理解できるのか。
できれば不条理ではないし、できなければ不条理かどうかもわからない。
不条理とは、人間同士が理解することの可能性と不可能性のリンボ(不確実な状態・忘れ物の放置場所)だからだ。
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では、宇吹萌(うすい・めい)作・演出、劇団 Rising Tiptoe による「皿の裏」をながめることにしよう。
この劇団名は、「彼岸から忍びよる不在者の足音(唐十郎作『ジョン・シルバー』)をイメージしたものという。

「皿の裏」の「の」は、なにを意味するのか。
古語文法によれば、「の」のもっとも基本的な意味は「存在の場所」を示すことにある。しかし、所有、所属、場所、同一、属性を示すこともできる。
「わたしの本」なら、わたしが所有する本だ。「東京の人」は、まさか東京を所有する人ではないから、 東京出身の人か、東京に住んでいる人だろう。「夢の城」なら、同一性の用法だろうか。
『れでぃ画画のような肩こってんのほぐれる個展』(深見東州)の「の」はなんだろうかも考えたいが、それはさておき、「皿の裏」の「の」はなかなか意味深の「の」であることを了解してから観劇することにしたい。
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さて、「皿の裏」は、一見そうでもなさそうだが、実はその演劇空間と意味空間は複雑である。
世界の意味構造を2と3の数で象徴的に把握するのは古来からの物語作法の基本である。
シェークスピアの『マクベス』もオーウェルの『1984年』もしかり。
この「皿の裏」も、「向こう側」と「こちら側」の二重構造になっていて、さらに「こちら側」は人工甘味料工場とクリーニング店と研究所に三分されている。
この研究所の所長も怪しげだ。カルトに転化しかねない思想の持ち主かもしれない。

「向こう側」と「こちらの側」の間には「深くて暗い海」があるらしいが、「向こう側」から帰還した者がいるから、もしかしたら「向こう側」があるというのは「こちら側」の錯覚かもしれない。
古代人の感覚では彼岸と此岸の間には水河がながれていて、それは死と再生の象徴である。しかし、「皿の裏」の二重性は、そういうことでもないらしい。
では、どのような二重性なのか。此岸性の二重性なのか。
それは、観客の皆さん各自の想像力を働かせる愉しみだ。

偏差値人間は、同一の文字作品に対して一定のメッセージがあるはずだと考えるかもしれない。とすれば、それ自体がどんでもない誤解である。
だから人々は独裁者のメッセージに騙かされてしまうのだ。
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一定の自己主張している人を魅了する作品の内部には、逆立ちした言葉、三角の言葉、蛇の様な言葉などなどが、わんさとつめこまれているものである。
「皿の裏」にも、警句、駄洒落、はっとするような洞察、軽口、などなどが入り乱れている。そして、それらが笑いあったり騙し合ったり、抱き合ったりしている。

この不条理劇(と勝手にわたしが受け止めている作品)を鑑賞して、まず、わたしたちの日常の言葉が、どれだけいいかげんなものかを反省するのもよいだろう。
それによって、日常生活の不条理にめざめることの豊かさを味わうことになるからだ。

この作品は、できれば二度観劇してみると、その言葉の豊穣性がよりよく味わえるような作品かもしれない。しかし、現実的には、そうはいくまい。
だから観客に一つの作品を二回観ることを期待するより、一回観て二回の悦楽をえられるようになればよい。
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宇吹萌さんは、現代詩の詩人でもある。詩は言葉だ。言葉は、つまり「こと(時間的経過をふくんだ人間にかかわる事象)」の「は」(断片)にすぎないが、この断片を紡いでいく他に人間は自らを存在をーーたとえ不条理であるとしてもーー確認することができない。

宇吹萌さんは、いま生み出してしまったこの「皿の裏」を、さらに磨きをかけて、様々な意味の重層した各層がいっそう共鳴しあうような作品に仕上げてゆくのではないかと期待している。