そのとき必ずこの本は、勧めるという本が
原題『サイ・サッチャリトラ』で
ブラフマー、ビシュヌ、シヴァ神の三位一体のダッタトレーヤ神というのがいるのですが
インドでは、このダッタトレーヤ神が人類の霊的向上のために人間の形をとって生まれ変わると言われていて
シルディ村にいたシルディ・サイババもその化身の一人と言われています。
ダッタトレーヤを信奉する修行でダッタ・サンプラダヤという修行法があるのですが
このダッタ・サンプラダヤでは『パラーヤナ』といって
一番のメインの修行法があります。
『パラーヤナ』というのは、このダッタトレーヤの化身の物語の本を読むことなのです。
ただ、普通の本と違いエネルギーをすごく持っているので
本を読むこと自体がダッタトレーヤのダルシャンに匹敵すると言われています。
(※ダルシャンというのは基本は「見る」ということで寺院に行ってご本尊を見るのもダルシャンといいます)
この本では、実際に会って恩寵を受けるという意味でのダルシャンと取ってもらっていいくらいの意味です。
私の20年くらい前の話しですが
インドに住んでいて
ある、シルディサイババの信者と会い
その人から、この「サイ・サッチャリトラ」の素晴らしさを聞かされるのと
不思議ですが、その人の「サイ・サッチャリトラ」はポンッと手で本を叩くとビブーティが物質化されるのです。
それから2ヵ月くらいは、毎日2回この本を完読していました。
実際、エネルギー的に素晴らしいのでこの本を読むこと自体が単なる読書でなく霊性修行になるのと
霊的英知の宝庫であり、またその英知を難しい言葉を使わないで簡単明瞭に解いているのです。
ただエッセンスなので読み手次第なのも面白いところで
例えば
『サイババの石臼は、カルマ(行為)とバクティ(神への信愛)という上下の石からできていました。カルマは下の臼でバクティは上の臼です。取手はジュナナ(英知)です』
行為から始まって、バクティ(神への信愛)に入るのですが英知を伴わなければ霊的成長があまりありません。
それに本物は、どのヨガの道も絡まりあって複合的です。
バクティにしろ、カルマヨーガにしろ、瞑想のラージャヨーガにしろ成長すればジュナナ(英知)を伴ってきます。
1つのヨーガに固執するのは人間のエゴです。
ただ、この本の欠点として宗教が日常生活に溶け込んだインドのものなので
日本人からすれば、宗教臭さがあると思います。
例えば、『おーサイババを愛しています』『神としてのあなただけを愛します』とかの
著者や登場人物のそういった誇張表現みたいなところはスルーしてもらえればと思います。