あらためて
流山の神話巡り
通説を疑い妄想の旅へ
まずは『山が流れてきて流山』の発祥の地
赤城神社
山とは群馬県の赤城山の事
4つの町会で協力して一本の『大しめ縄』をつくる
実際は三つ編みで出雲大社の大しめ縄とは違う
同じ大国主を祭り、川の氾濫を鎮める役割があるといわれる
森に見えるけど高さ15mの山
これが利根川と江戸川を伝って流れてきたとされる
参道は西北を向いているので群馬の方角
本殿は江戸時代に建て替えた模様
流れてきたお札を保管し祭る
創建は不明だが群馬の浅間山の噴火は
平安時代の1108年(天仁噴火)と江戸時代の1783年(天明噴火)の2回あり
住めなくなったので流山に移住してきたと妄想される
榛名山の噴火は古墳時代の525←→550年の初夏とされ
そんなに早くはなかったと思われる
江戸時代に利根川は銚子の方へ削岩したので
それ以前だと思われるので平安末期であろう
(平家が滅び源氏の時代へ変わるころ)
水舎は金の竜
個人的には『百足(むかで)』のオブジェを探しているのだが
見つからない
入り口の大しめ縄も実は百足ではないかと思ったが違うようだ
彫刻は梅と松
定番の龍と狛犬は見当たらない
水桶の紋章は流鉄の社章
末社は一度火事になり再建
1251年に『吾妻鏡』に「赤木嶽焼く」という記述があり
赤城山噴火という解釈もあるが、噴火してカルデラ湖ができたのは
何万年も前なので浅間山の方が現実的に思う
それが神話の『二荒山と赤城山』の対決
赤城山が負けて『大ムカデ』と呼ばれるようになっただけで
元々は同じ大蛇同士の戦いだったのではないかと思う
唯一ムカデらしい行為は
階段を真っ直ぐに御輿をかつぎ登る事
ムカデは武士の象徴で『後退をしない』といわれ
武田信玄も旗印にムカデを使っていたという
江戸の愛宕山の愛宕神社でも
馬で一気に階段を駆け上がる神事があり
達成すると出世するといわれる石段
そして赤城神社と二荒山は大国主(大黒様)を祭っている
いわば身内同士が戦わされ負けた方が流山に移住した
というのが自分の妄想
元々は群馬と栃木は『毛野国』とよばれ
上野毛国と下野毛国に分断され統治された経緯
大和朝廷に負けた部族は『俘囚』として下総とかに移住させられた
古い神社は『神仏習合』だったので神社と寺は同じと見た方がいい
明治になって分けられたからである
中には廃寺になったところもある
仏教僧は第3の勢力と呼ばれているので見落としやすい
車でも登れる坂もある
これが無いと建て替えるのは大変
陣を構えるのは高台といわれるけど
なぜここではなかったのか
下は真言宗の「赤城山光明院神楽寺」
不動明王を祭る
新選組が泊まったといわれるお寺
流山本町の「宿地区」にある
北には上新宿という地名もある
赤城神社の別当祈願所といわれるも創建は不明
京都にも臨済宗の「東福寺 光明院」があり、
鰭ヶ崎にも「東福寺」があるのでややこしい
東京の新宿区神楽坂にも赤城神社があり、
江戸川橋・早稲田・白銀など似たような地名がある
中地区の長福寺から鎌倉時代の菩薩像をもってきて安置しているが
神仏習合時代のエピソードが少ない
俳句の小林一茶もゆかりがある
移動
街中にもミュージアムがある
創業者は初代堀切紋次郎
堀切紋次郎という名は世襲制
明和 3(1766)年に番匠免村(現埼玉県三郷市)から流山村(現流山市)に移り住む
新しくみりんミュージアムも完成した
余談だが、時代劇の「木枯し紋次郎」は群馬の出身という設定
「あっしにはかかわりのないことでござんす」
というセリフが有名
本陣へ
蔵と新選組の本陣が結びつかないんだけど
蔵は呉服屋さんから曳家で運んだとか
個人の家に陣を張る意味が分からない
迷惑をかけてはいけないと自主したようだが
そもそもなぜ流山に逃げてきたのか
松戸と流山は徳川の天領地
野田の醤油や流山の白みりんは豪商とよばれ
軍資金が欲しかったのでと思われる
そして赤城山の徳川の埋蔵金伝説をあてにしたのではと妄想
都市伝説でおなじみの「かごめかごめ」の唄はなんと野田の清水公園が発祥
下総の赤城神社3社との関係はいかに
蔵といったら金庫のようなもの
運資金を持って土方歳三は函館まで生き延びて
榎本武揚と「蝦夷共和国」を創ろうとしたという説
後にゴールデンカムイとリンクする
ロマンに思います
そして隣の閻魔堂へ
井戸はあの世とこの世の境目だとか
井戸があれば戦もしのげるも
地獄の閻魔大王が裁きを下す
大久保大和こと近藤勇は板橋ですぐに処刑され
内藤隼人こと土方歳三は函館で戦死
榎本武揚は許されて新政府の役人となった
資本金が無ければ国は作れない
流山に軍資金があったと思える
実はまだ残っているのではないかな
つづく





























































