母のこと(5) | ニャンコと日常ブログ

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マンチカンの「凜音」&アメショの「ユーリ」の話から
仕事やゲームの話まで広々(笑)
ざっくり言うと「日々の日記」を書いてます!
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10月4日(金)

運動会が近いため、あくる日土曜は運動会を行う

グラウンドの奉仕作業があり、その前にトラックの印打ちを

してから、夕方6時過ぎに病室に向かいました。


病室につくと息を苦しそうにはく母の姿がうつり、

父に大丈夫なのか?と、不安な気持ちで聞きました。

夕方から、そうだったようで、午前中は父も少しは

喋れたようです。


丁度その日、B病院の担当医師が(術後からとても一生懸命してくれました)

「腎臓には、問題がなく大丈夫です。ただ、ご飯を食べていないので

管を入れて、流し込むことをしてもいいですか?」と、話があり、

丁度、私たちも食事をしない母が心配で、そうして欲しかった事を

つげ、お願いすると同時にホッとして

家族4人でその日は、外食に行きました。



ですが、5日(土)の朝4時15分に病院から電話があり

「血圧が下がり、体調が悪そうです」とのことで

父、弟が先に向かい、私も凜音に早めのご飯をあげてから

病院に向かいました。


血圧は、薬のお陰で100台をキープしているようで

血圧や、脈の測定器のアラームが鳴るたびに

母を励まし、不安になる時間を過ごしました。


母の呼吸は前日のまま、とてもきつそうで、

呼びかけても返事もなく、モニターが微かに揺れるのを

何度も確認しました。


夜が明けてから、今夜か、明日が山場と言われ

「昨日の大丈夫は、なんだったのか?」と思いました。


ですが、ちょうど1週間前、夕食時に父が私と弟に

「お母さんは、たぶんもう帰って来れないから覚悟をしておきなさい」と

言ったのを思い出しました。


まさか、そんなことは・・・と弟と思っていましたが

父は、体内の臓器に損傷が出れば

最終的にはどうなっていくのか、先を見通すことが出来

逆につらかったようです。


朝方、親戚も駆けつけましたが、1度帰宅しました。


母の症状を少しでも良くしようと、昼に透析をするよう

踏み切りました。

透析は血圧が120ないと無理で、母は薬を使って

臨みました。


その間、私たちは昼食をとりましたが、しばらくすると

病院から連絡があり、体調が悪く体に負担がかかるため

半分しか出来なかったとのことを告げられました。


そのまま、病院にみんなで行き、親戚も集まり

母の様子を見守り、声をかけ続けました。


夕方、怖くて来れなかった祖母を、叔父2人が迎えに向かいました。

その間も血圧は、下がる一方でみんな祈るように

ベッドの傍で代わる代わる励ましました。

夕方5時過ぎ、凜音にご飯をあげるため、帰宅。

病院までは車で5分もかかりませんので、その点は

ありがたかったです。


病室の、測定器のアラームが耳障りで、5分おきに低くなると

ピコーンピコーンとなり、頭に残り、その後も似た音が聞こえると

耳をふさぎたくなりました。

とうとう、夕方には指からも脈が計れなくなりました。

9時ごろから人工呼吸器をつけないといけなくなり

そのモニターをじっと見つめては、母を見る。

そんな時間だけが過ぎていきました。


祖母が病室に着いたのは夜の9時半過ぎ。

それからすぐに体調が悪くなり、血圧をあげる薬も最大まで投与し

看護師さんも駆けつけ、一気に病室は騒がしくなりました。


母が、力なく横たわるその上で心臓マッサージが始まり

薬も投与され、その様子をただじっと見守ることしかできませんでした。


気になったのが、この時に来た医者(よその医者らしい)と

看護師がこの状況の中、笑っていたことに腹が立ちました。

妹もキレて言っていましたが。


マッサージの中、担当の先生も駆けつけ、最後は

人工呼吸器をみんなの見守る中、外して静かになった時

まるで、ドラマを見ているような、信じられない思いで

いっぱいになりました。




元気だった母。


これからの人生、やりたいことがいっぱいあり、何からしようか

楽しみにしていた母。


少し、太ったね~。一緒に歩く?スイミング通う?と、私と言っていた母。


よく買い物に行ったり、2人で飲みに行っていた姉妹みたいな母。


おばあちゃんちの庭に畑を作り、帰省しては畑いじりをしていた母。


料理が得意で、毎日おいしいご飯を作って待っていた母。


いってらっしゃ~いと、凜音と見送ってくれた母。


家族、親戚の中で1番元気で、明るく面白い友人の多かった母。


病室でずっと「凜音に会いたい」と口にしていた母。



10月5日(土) 家族の見守る中で 夜の10時12分に66歳の

生涯を閉じました。


信じられない思い。通夜の前に過ごした式場。

お葬式での最後の別れ。骨になり、帰宅した母。

悲しくてずっとボロボロで、食事ものどを通らす、4キロ痩せてしまい

いまだに戻りません。


ですが、悲しい前に(A)病院の医者に怒りがあり、

親戚家族で話し合い、弁護士さんに連絡をとり

現在手紙を送ったところです。


どうなるかはわかりませんが、裁判になった時は

戦う覚悟です!絶対に許せません!


私たちは、裁判になってもお金が欲しいのではありません。

母は、その金額ではかえられないですから!

出来ることなら「母を返して欲しい」です!

でもそれは到底無理なこと・・・。


ですが母がこれから先、歩むであっただろう第2の人生を

返してほしいだけです。

医師ならば命の重さをもう少し慎重に考えてもらいたいです!


私は母が入院してから1度もA病院の執刀医を見ていません。

線香の1本もあげに来ませんでした。

病院は家からすぐの所で、メッチャ見えるんですよね…。怒る

後で聞けば、この(A)執刀医、独断で手術したようで、B病院側とは全く

話し合いが出来ていなかったようです。


 手術前、(A)執刀医は急に手術の日取りを決めてきました。

8月末に「9月の12か、18にしましょう」


説明時に言った言葉が

「丁度過ごしやすい時期でいいでしょ?」



コスモスの花が揺れるたび、金木犀の匂いが流れてくる度に

私はきっと、母の最期の姿を思い出すでしょう。


過ごしやすい時期ってなんだ?

私にとっては苦痛になった!と言いたいです。


一番残念なのは、母自身。

母の無念を晴らしたいと思います。


訃報を知って、本当に沢山の励ましをいただきました。


お通夜、告別式、後で名前を確認すると

300以上の方の名前がありました。


式場で、また、自宅に立ち寄られ沢山涙する人もいました。

みなさんの気持ちを胸に、少しずつ頑張っていきたいと思います。





病室で、夕飯の魚を不安げに焼いた私に言った母の一言が


「何事も経験よ」


でした。



母のその言葉を胸に今、頑張っているところです。


忌引きで1週間休み、出た初日が運動会予行練習・・汗


子どもたちの一人が

「お休みも幼稚園あればいいのにね」


私「え?どうして?」


「だってね、幼稚園があれば先生一人ぼっちじゃないもん」


と、子どもなりに気を使って励ましてくれました。

何度も園で涙はこぼれましたが、

上の先生方も、理事長先生も、みんなが

声をかけ、励ましてくれます。

そんな職場に恵まれ、有難さを改めて感じています。




今までのように通常運転は、まだまだでしょうが

ボチボチ頑張っていきたいと思いますので、これからも

よろしくお願いいたします。


長々と、すみませんでした。

覚えていることをどうしても残しておきたかったんです・・・。


ではでは。