先々月、とある方からお誘いを受け、下松市にある降松神社の上宮までお供したRieruです★
上宮へは3回目になりますが、“今年の”1回目は5月17日、2回目は5月29日・・・はい、2回参りました。
2回目は自ら応募したわけですが。(ということで、画像は両日混ぜこぜで貼らせていただきます)
上宮に参るには、若宮→中宮へも参らなければなりません。
中宮の前に、まずは随身門へ。
昔は神仏習合だったので、仁王さまがいらっしゃる、仁王門だったようです。
神仏分離後は、矢大臣&左大臣に。
こちらの石灯籠は、享和2(1802)年に奉納されたようです。
『松浦三省文郷 内山重左衛門令完』と刻まれていました。
玉(宝珠)に台座が!
他では見られない特徴ですね。
色味が違うところは、後年に修復されている?
修復されている箇所は、随身門(仁王門)にも。
新しめの板が貼られていました。
文化4(1807)年に建立されたので、築200年以上になりますね。
イテテ
(謎彫刻①←②が無いのに?)
この門の基礎石に、奉納者名が刻まれているとK氏が教えてくださいました。
え?そんな場所に彫られているんですか!
『磯部吉左衛門 磯部彌四郎 磯部清右衛門 原田友右衛門』と刻まれているようです。
松心寺にある宝篋印塔も、この4人組が奉納されたもので・・・
鷲頭寺が明治12(1879)年に河内村から移転する際に、移転を反対した人々が松心寺の薮に隠してしまった、アレです。
72年前に村の有力者たちが奉納した宝篋印塔を別の地に運ばれるなんて、そりゃあ納得いかなかったことでしょう。
各地で似たような話は、あったと思いますよ。
長年大事にしていたものが、いきなり自分たちの意志とは関係無く離れた場所に移されると知った時の衝撃と言ったら!
そういう張り裂けそうな想いで隠されたのだから、(多分)お咎め無しだったのでしょうね。
隠した人たちは、まさか令和の時代にネタにされるなんて思いも寄らなかったでしょうが。
アイタタタ
(もう、そっとしといてあげて〜)