11.43 a.m.
シンボル的な高燈籠なので、観光(参拝)客の撮影スポットになっています。
私が去った後と、引き返す頃に、複数人が撮影会をしていました。
タイミング良く、誰もいない時に撮影することに成功☆
右側の側面には、『金子忠左衛門 善・・・』(右)、『・・・十郎右衛門 善之』(左)、『敬立』(下)とあります。
金子さんは『三笠屋』という、庄屋さんだったそうで。
左側の側面には、『天保三年・・・壬辰冬十一月吉日』と刻まれていました。
天保3(1832)年に木製灯明台として建てられたそうですが、暴風雨の為に破損したそうです。
その後、石組みのものに建て替えられたました。
元は千砂子波止の先端にあったそうですが、現在は新しい高燈籠が建っているようです。
移築されたということなのですかね?
建て替えらる時に移築されたのでしょうか?
高燈籠の近くには、太鼓橋があります。
海側から横を・・・は、無理でした。
太鼓橋の名前は、『住吉橋』〜。そのままですね。
橋を渡った先に説明板があり、このように書かれていました。
広島県指定重要文化財
住吉神社
江戸後期、瀬戸内各地の港との競合なら御手洗港の拡張を迫られた広島藩は、文政11(1828)年から一年かけて、当時『中国無双』と称された全長六十五間(約120m)の『千砂子波止』を築きました。
住吉神社は、その鎮守として文政13(1830)年に建立されたもので、藩の勘定奉行 筒井極人(きめと)が蔵元である大阪の豪商 鴻池善右衛門へ神社寄進を依頼し、ほんの座興の話が思いがけず実現したという逸話が残されています。
本殿は、堺の住吉大社を正確に2分の1に写し、大阪で造らせてから組み立てたとされ、広島県の重要文化財に指定されています、境内の玉垣や石灯篭などは、町内のほか各地の問屋連中から寄進されており、中には花魁の源氏名も見られます。『高燈籠』は、当地の庄屋 金子忠左衛門が寄進したもので、当初波止の突端にあったものを明治期に移転しています。
あら、高燈籠を移したのは、明治期だったのですね。
波止には、鶴と亀、瓢箪(ひょうたん)の浮き彫りが?
時間があれば、波止を歩いてみたいです。
その前に参拝を。
立派な石灯籠が迎えてくれました。・・・あら、この石灯籠!
『摂津國堺住吉岸の姫松』とあり、寄進されたのは、大阪の山中さん?かな。
岸の姫松は、古今和歌集にもある、有名な松ですよね。(←今日 5月21日に知った)
この石柱、結構な高さがありますよ?大阪から運んだ松は、そこまで巨木では無かったはず。
まだ、その松は存在するのでしょうか?境内には、数本ありましたが。
ぜんぶ、姫松!又は子孫ということで。
アイタタタ
(テキトー!←そういう人だよ)