ここですね!
桜の木は『並木』ではなく、ポイントごとに立っているようです。
立派な桜の木ですね。
離れて見ると、そこまで桜の花は目立っていませんでした。
どこから上がれば?
12.32 p.m.
しばらく下から眺めました。
入船山にあったものと似ています。『鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 〜日本近代化の躍動を体感できるまち〜』とあり、このように書かれていました。
長迫公園(旧海軍墓地)
呉海軍墓地は鎮守府開庁の翌年、明治23(1890)年に開設されました。この墓地は、戦病没した呉鎮守府管轄下の軍人のためのものでしたが、その後艦艇で亡くなった将兵の合祀碑もいくつか設置されています。
昭和20(1945)年の敗戦により、海軍墓地は国有財産となりましたが、同年9月の枕崎台風で荒廃し、復旧後の22年に旧海軍墓地のある場所は、周辺の市有地と合わせて長迫公園として整備されました。
戦後、現地の管理は呉地方復員局が行っていましたが、復員局廃止後は旧海軍関係者などが管理を引き継ぎ、昭和46(1971)年には旧呉海軍墓地保存協力会が設立されました。この頃から戦友会や遺族会などにより艦艇や部隊などの慰霊碑が建立されるようになり現在の姿となっています。
昭和61(1986)年、長迫公園の全部が呉市へ譲渡されましたが、旧海軍墓地の管理は引き続き旧海軍墓地保存協力会(現:公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会)が行っています。
毎年、秋分の日には合同追悼式が開催されています。
そんな経緯があったとは。
今も昔も、同じ場所にあったのですね。
別の説明板もありましたが、重複箇所もありました。
一応書いておきます。
呉海軍墓地の沿革
呉海軍墓地は、戦没などによる海軍軍人軍属の埋葬地として、明治23(1890)年に用地8570坪(約2万8千平方米)を海軍が買収してこの地に設置された。以来、呉鎮守府管轄の下、在天の霊を慰めその遺徳を永えに偲ぶため、弔祭内規を定め毎年1回秋季に慰霊の祭典が執り行われて来たが、昭和20(1945)年8月 大東亜戦争終結により廃止された。同年7月戦災、次いで9月の水害により無惨に荒廃し果てた。
呉地方復員局は、地元有志の協力を得て復旧、その後心ある人々、団体、付近住民等の奉仕により清掃と供養が続けられてきた。
昭和46(1971)年 同志相諮り、呉海軍墓地保存協力会(昭和63年7月『呉海軍墓地保存会』と改称)を組織し、環境整備に協力するとともに、毎年秋分の日に追悼の式典を行うこととした。
昭和46年3月、旧軍港市転換法に基づき呉市に無償貸付、同61(1986)年 無償譲与され、市有地と併せ約2万9千平方米を、長迫公園として整備、呉市が維持管理することとなった。
昭和60(1985)年9月23日には高松宮同妃両殿下のご臨席を仰ぎ、第15回合同追悼式が盛大に挙行された。
なるほど。より詳しく書かれていましたね。
呉海軍墓地について予備知識が無いまま訪ねたので、助かりました。
ふと見上げると、『戦艦大和戦死者之碑』が。大和の遺影も置かれています。
沢山の水やお茶が入ったペットボトルが供えられていました。傍らには、『戦艦大和戦死者氏名』と『戦艦大和戦歴』、『戦艦大和艦歴』も。
説明板の近くに建っていた『第十戦隊旗艦 巡洋艦阿賀野』の慰霊碑の玉垣に(後日)目が行きました。
『第十六駆逐艦 雪風』(側面の『時津風』は陽炎型駆逐艦の10番艦)の、玉垣が!
他には『秋月』、『初月』、『磯風』、『浜風』、『舞風』、『萩風』、『追風』・・・私の知らない駆逐艦が多くあり、極めようと思ったらまず、書籍を購入しなくては・・・
『ショートランド島 戦没者 慰霊碑』も近くにありました。
ソロモン諸島にあるようですが、靖国神社の外苑にあった戦跡の石の中にあったのか・・・記憶に無くて、すみません。
ショートランド島の事を調べてみると、1942年4月(3月末?)に日本軍がショートランド島へ侵攻し、占領。ソロモン諸島方面の最前線基地として、このショートランド島南東部と、マグサイアイ島、ポポラング島に挟まれた海域を泊地として利用されたようです。
ガダルカナル島での戦いの際は、駆逐艦の多くがここから出港したそうで。
別の場所に、『慰霊碑命日一覧表』がありました。
4月1日に訪ねたのでまだ3月のでしたが、駆逐艦『白雪』、『白雲』の名前が。
あら、案内図があるじゃないですか!
他の駆逐艦は、『東雲』、『島風』、『綾波』、『敷波』、『陽炎』、『桑』、『椿』、『叢雲』、『天津風』、『浦波』、『呉竹』、『早蕨』、『深雪』・・・(上で書いた艦は外しました)
呉鎮守府だけでこの数と思うと、胸が苦しくなります。
・・・じつは、この案内図は最後の最後に見つけたんですよね。
アイタタタ
(予習してから参らないと、迷い込んでしまいます・・・)