広島の神社仏閣★水交神社編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。

今月初め、呉駅スタートで、呉市を歩いたRieruです★



『美術館通り』を歩き、入船山にある『旧東郷家住宅離れ』⇒『旧呉海軍工廠塔時計』⇒『番兵塔』⇒『旧高烏砲台火薬庫』等、呉海軍にまつわる史跡を見学しました。



計画段階で、この辺りを散策程度に巡ろうと思っていたので、時間が全然足りませんでした。



『郷土館』や、『旧呉鎮守府司令長官官舎』は有料エリアだし、またの機会に訪ねることに。



敷地も広いし、時間がある時じゃないと、逆に勿体ないですよね。

しかし、案内図にも記載されていない、気になるお社が見えたもので、そちらには早足で参拝させていただくことに。


10.36 am


『旧高烏砲台火薬庫』の近くにある小路を下ると、そこに『水交神社』がありました。



ありがたいことに説明板があり、このように書かれていました。



水交神社由来


  この水交神社はこの麓にあった旧水交社の守り神として、昭和18(1943)年 海軍の手によって建立され、天照大神を祀ったものである。

  終戦後海軍解体のため、祭主を失った同神社は、たまたま戦災のため消失した亀山神社の仮社殿として同神社に迎えられ同神社の祭神とともに奉祀せられた。



  昭和30(1955)年 亀山神社改築後、この社殿は一時転々として一市民の手によって保存されていた。

  その後、この社殿が旧水交神社のものであることが判明。水交会呉支部(旧海軍士官の会)の好意により史跡として旧形の通り昭和43(1968)年4月 このところに復元したものである。

元々は麓にあったのですね。

はて、水交会(すいこうしゃ)とは?気になって調べてみると、HPがあり、このように紹介されていました。


  『水交社』は、明治6(1876)年に設立された日本海軍将校の親睦・研究団体『水交社』に端を発します。
  水交社は、海軍士官のために設けられた福利厚生施設で宿泊施設、宴会、軍装品から日用品にいたるものまでの販売など出版事業も行っていました。
  水交社は、海軍士官クラブの全国組織とでも言うべきもので、『海軍高等武官、候補生、海軍高等文官及び試補(明治19年の頃 少尉候補生に改められました)』をもって組織され、これを社員と称されました。総裁には皇族を戴き、社長は時の海軍大臣でした。

へぇ〜。その後は終戦とともに解散後、任意団体『水交会』として新たに発足し、厚生省所轄財団法人として許可を受けたようです。

で、東京都港区芝白金三光町から、『東郷神社』境内にある『水交会館』(東郷記念館1階部分)に移転・・・

え!
『東郷神社』に参ったのに、全然気が付きませんでした・・・



神池があったので歩いて見たかったのですが、わりとは人出があり(コロナ禍前)、なんとなく避けたエリアだったのですが、地図を確認すると『水交社』の鳥居もあるようで。

行き当たりばったりで行くと、いろいろ見落としてしまいますね。

ちなみに支部は、『北海道』、『大湊』、『下総』、『横須賀』、『湘南』、『舞鶴』、『関西』、『』、『福岡』、『佐世保』、『鹿児島』の11ヶ所にあるそうです。


境内には気になる石がありましたが、何も刻まれていません。



表側だけ荒々しい?削られたのかは分かりませんでした。何かの石碑だったのは確かですが。


『萬古清風』と刻まれた碑があり、左側には『呉鎮守府司令長官海軍大将 野村直邦書』とあります。



帰りにお邪魔した郷土館に、第30代の司令長官 野村直邦大将の事が展示されていたパネルを偶然撮影していました。

それによると、大将は鹿児島県出身で、在任期間はS18.10.22〜S19.7.17。



昭和15年 日・独・伊三国同盟軍事委員。昭和18年 独潜水艦Uボートにて敵海域2ヶ月間の航行を経験。・・・とあります。

司令長官後は海軍大臣に・・・あら、水交社の社長だった時期もあったのですね。

昭和48(1973)年12月に、88歳で亡くなられています。


この日は良い天気でしたが、木々が生い茂っていて、良い具合でした。



木製の鳥居があります。



上の部分は、銅板で覆われていました。


おっと、一瞬、将棋の駒かと思いましたよ。何の碑でしょうか?



説明板には、このように書かれています。


至誠の碑

  これは旧海軍第三門の衛兵所(国立病院と清水丘高校との境にあたる)跡にあったもので、当時の衛兵によって昭和19年6月8日に建てられたものをここに移したものである。
昭和42年6月8日

なるほど、『至誠』・・・


近くには・・・



これまた読みにくい碑が。表と裏では書体と刻まれた年月が違いました。



裏は後から刻まれたようです。また機会があれば訪ねたいですが、夏は蝉の声が凄そうですね。



・・・蚊をお忘れなく。



アイタタタ



(日焼け止めと蚊除けスプレーが必要です!)