『旧東郷家住宅離れ』と、『旧呉海軍工廠塔時計』を見学しました。
時計の先に、小さい建物があります。
地図を見ると、『番兵塔(ばんぺいとう)』と『ボランティアガイド詰所』とあります。
ふむふむ・・・白い方から拝見しましょう。
人ひとり入れるぐらいの大きさです。
入口にはロープが掛けられていて、立ち入ることは出来ません。
中には2枚の板があり、右側は『旧帝国海軍時代の番兵塔 屋根の葺替及び損傷個所修復ならびに塗装 小出盛雄 寺川貞人 周囲の石組み 出来本益三 昭和四十六年九月』と、
左側には『屋根の葺替及び損傷個所修復ならびに塗装 昭和五十八年十月 住田幸重』と、書かれていました。
そして、近くにあった説明板には、このように書かれています。
番兵塔
警護のため、長官官舎や海兵団等の入口に建てられていだめのの一つです。
昼夜を問わず立哨(りっしょう)が行なわれていたため、足元の部分(礎石)がすり減っています。
そうなの?
どれどれ。
画像では見えにくいかもしれませんが、確かに凹んでいました。
雨が降ったら、水溜まりができそうなぐらい。
さて、『ボランティアガイド詰所』と記載されていた建物も拝見しましょう。古そうなレンガですね。
ミニ看板には、『初代の呉鎮守府庁舎に使われていたレンガ』と、書かれていました。
大量にあっただろうレンガは、他の場所にも残されているかもしれません。
レンガの建物を過ぎると、木製の門柱がありました。右側の門柱手前には、これまた古そうな石灯籠があります。
近くで見ていませんが、『往来安全石燈籠』といい、明治17(1884)年に、広村と郷原村をむすぶ旧街道の峠に建てられた常夜灯4基のうちの1基を移築したものだそうです。
暗くなったら明かりを灯して、往来する人々の目印になっていたのですね。
門柱と門柱の間に架かる金属製のものは、やはり電球等を下げる役目のもののようでした。
こちらの建物は国登録有形文化財である『旧高烏砲台火薬庫』で、説明には、このように書かれていました。
明治30(1897)年以降、呉湾や広島湾を見下ろすことのできる要所に陸軍の砲台が築かれていました。
やっぱり!
建物入口左側には碑のようなものがあり、ミニ看板には、このように書かれていました。
要塞地帯標(ようさいちたいひょう)
これらの標柱は、軍の重要な地域であることを標示し、立ち入り禁止を示していたものです。呉軍港を囲む周辺の山々にあったものです。
へぇ〜、そんなものが。
建物左側面の床下の通気口?は、オシャレな形でした。
瓦が置かれています。この時は気付きませんでしたが、呉・・・・・・?
あ〜・・・、もうちょっと注意深く見れば良かったです!
そんなことは露知らず。戸が開いていますし、入っても良いのかな?
運良く、貸し切り状態でした。・・・いざ!
おおう?
意外と入口が低いので、本当に『頭上注意』です。
入って振り返ると、入口はこんな感じ。
周りは木々のおかげで日陰だし、室内も日陰なわけで、肌寒いです。
換気はバッチリ☆
なので、余計に寒いです。真冬はストーブ等、暖房は効いているのでしょうか?
レトロ感がある、ランプ(?)。
『旧呉鎮守府司令長官官舎』の骨組模型展示等があり、スクリーンに映し出される、『上映絵画』なるものもありました。
所要時間が約24分らしいので、またの機会に。
スクリーンはもう1枚あり、『呉市紹介動画』が流れるようです。
所要時間約15分。呉市観光プロモーションか〜。時間があったら、視聴したかったです。最後に『呉氏プロモーション動画』も流れるようでしたし。
後日気になって探していたら、こんな動画を発見しました!
『美術館通り』や、『旧呉鎮守府司令長官官舎』、『とびしま海道』や『御手洗地区』等々、思い出が溢れてきて、胸が熱くなりましたよ。
ストーリー風に仕上げてましたし、わりと制作費もかかったのではないでしょうか?
他にも見付けてしまいました・・・
呉氏がマーシー(真島昌利)風になっていて、かなりツボな仕上がり!
(どんな動画か分かりませんが)スクリーンに映る呉氏を観る為に、今年4度目の呉行きを検討せんにゃあいけんかね?
・・・その前に、早(はよ)う、3回目のワクチンを打ちんさいや。
アイタタタ
(これでもいろいろ打ちに行けない理由があるのですよ・・・でも4回目の呉行きまでには済ませたいです←とか言って年末頃だったら怒るで、しかし!)