山口の神社仏閣★南原寺の七不思議①②③・本堂編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



昨夜LIVE放送された柔道の試合を観て、興奮したRieruです★

阿部さん兄妹🥇🥇おめでとうございます!
前回の東京オリンピックから競技に加えられた柔道ですが、男子しか無かったのですね。
女子柔道が正式に加えられたのはバルセロナオリンピックからだそうで。
この先の競技も楽しみですね♬.*゚
卓球の石川佳純ちゃん推しな女は、先日美祢市にある桜山南原寺にお邪魔しました。

雪舟の庭に、カエル地蔵などなど、興味深いものがありますが、石鳥居を発見してビックリ!



奥には祠があり、石鳥居の近くにあった看板には、このように書かれていました。



役小角(えんおづぬ)

 役行者とも云われ、奈良時代に山岳を舞台として修行した呪術者。後世、修験道(山伏)の祖として祀られるようになりました。
ここに祀られている役小角は右手に錫杖、左手に経巻を持ち、高足駄をはき岩座に腰を掛けて両側に前鬼、後鬼を従えています。



役小角!中学生の頃、小説『宇宙皇子(うつのみこ)/藤川桂介』(歴史伝奇ファンタジー)にハマっていた者としては、ツボでありましたよ!
小説の巻の中にはセクシーな表紙があり、女子中学生としては購入時に、かなり勇気を有した思い出が甦りました。
もちろん?各務(かがみ)ちゃん推しです!(←どうでもいい情報をすみません)

さて、本堂を目指しましょう。


思っていたよりも、お地蔵さんが多いです。

左側に巨石が。そして看板も。


なになに?



神秘の神域
南原寺 七不思議
① 鍾馗(しょうき)遊魂の岩

   まな板に彫られた雪舟作 鍾馗大臣は、夜な夜な動き出し人々を騒がせたという。この岩の足跡は、その時の鍾馗大臣が残したと伝える。



足跡?は、苔で覆われているのか確認できませんでした。


鍾馗は道教系の神さまで、疱瘡除けや学業成就にご利益があるそうです。魔除けにもなるのだとか。

その近くには、また石鳥居が。近くあった説明板には、このように書かれていました。




日吉山王権現の由来

  十四代 仲哀天皇9(200)年 神功皇后、三韓征伐出兵の折、瀬戸内海を御通行の時、当山より不思議な光を放っているのを御覧になり、その地を尋ねさせられた処その光は、当山の8合目にある自然石であった。
皇后は此峯に登られ岩石の尊体を拝し鉾を納め「永く夷狄(いてき)の難を波羅(はら)い給え」と祈願された。更に征伐の評議の折、山王権現の出陣の託宣により皇后は山王権現を此の地の守護神として勧請された。
また軍議をされた評定岩の側に桜の大樹が茂っていたのて、此の山を桜山(さくらざん)と名付けられたと伝えられている。
  山中には光明岩、神功皇后御評定岩、駒つなぎ岩といわれる古跡が残っている。
藩政時代には、美祢郡中の総鎮守として護持は吉田、大田の両宰判に割り当てられていた。
南原寺



へぇ〜、神功皇后に縁がある場所だったとは・・・
他にも説明板があり、素晴らしい場所だという事がわかります。




美祢市指定天然記念物

南原寺の照葉樹林
昭和58(1983)7月8日指定

   この照葉樹林は桜山(海抜455m)の中腹約370m(海抜)の地点に所在する。
   この森は角礫岩を母岩とするスダジイ優先群落でその構造の概要は次の通りである。
   高木層は「スダジイ」のほか「タブノキ」「アカガシ」「イスノキ」「クロガネモチ」を混じ林中に「オガタマノキ」がある。
  亜高木層は、「ヤブツバキ」が最も多く「タブノキ」「アカガシ」「ネズミモチ」「サカキ」「クロキ」が見られる。
  低木層は「ヒサカキ」「アオキ」「ネズミモチ」「タブノキ」「スダジイ」などで高い植被率を示す。
   一般に沿海地方に広がるスダジイ群落が海抜400m付近に位置すること。また沿海地方に希産する「オガタマノキ」を林中に包蔵する点も珍しい現象である。
   これは当山南原寺が真言宗の古刹として森林を大切にしてきたことによるものと思われるが、上述のように植物生態学術的にも貴重なものである。
美祢市教育委員会



で、この照葉樹林が、例の七不思議②になるようです。



南原寺 七不思議

② 照葉樹林

  沿海樹林を高山に!霊域ゆえに成せるわざ・・・スダジイ主体の照葉樹林は沿海地帯の暖かい所に成育するが、この照葉樹林は海抜400mの所で大変良好に成育している。



そして③が、すぐ側に。




③ 無患子(むくろじ)の木

  一度枯れ伐採されたのにもかかわらず、再度よみがえったと伝える。現在では落雷の切断にも耐え力強く成育し、不思議な生命力を示現している。



ほ〜、別の角度から見ると、ぽっこり穴が空いているのですね。


大人が余裕で入る大きさでしたが、入る勇気はありませんでした。

他にも気になるものがありましたが、帰り道にまた。
やっと本堂に到着。下の画像は、(正面から見て)右側になります。


鏝絵(こてえ)が特徴的。


あら、毛利家の家紋が彫られていますが、長府藩(萩藩の支藩)のもの?


瓦は萩藩のものでした。


海老虹梁が可愛い。


『櫻山』(桜山)


何度も書きますが、読みは“さくらざん”です。

別の場所にあった説明板には、このように書かれていました。



真言宗 南原寺の歴史

寺伝によると神功皇后の由来に基づき、難を払う寺として古くは難払寺、難波羅寺としょうしていた。
    三十三代推古天皇(593)年の時、聖徳太子が仏教を広める為、全国に四十六ケ寺を建立されたその内の一ケ寺である。
    その後、役の行者、弘法大師もこの地に留錫され周囲仏閣は三十有余と真言密教の聖地として寺運の隆盛は栄華を極めていたが、平安中期にはさびれていった。
  正歴2(991)年花山法皇は諸国巡歴の途に掛錫され衰退していた寺運のさを再興され、寛弘5(1008)年2月8日、御年41歳、当寺に於いて崩御されたと伝えられている。


  以来、国家の祈祷所として歴朝の尊信篤く特に四条天皇(1232〜42)は綸旨を下し近隣の里を多く寄進され、東厚保、大嶺、伊佐、於福、秋芳にわたり広大な寺領と末寺を有した。
   又、建武2(1335)年 佐々木直綱の寄進により益々栄え、里には阿弥陀堂、法華堂、地蔵堂、鳴滝寺、光照寺、御影堂、小杉寺等の多くの堂宇を有し、山内には西の坊、東の坊、上の坊、中の坊、谷の坊、中谷坊、梅之坊などの諸堂宇が散在し、末寺を含め周囲仏閣は百二十六坊を数えた。
   又、長門の国の鎮護寺として又、大内家、毛利家代々の祈願寺として厚い庇護を受けた。
   尚、山内の鎮守である日吉山王権現社は、山に七社、里に七社の社を持ち、美祢郡中(美祢、秋芳、美東)の総鎮守としての権威をもっていた。
   以来1400年の間、時世の変遷につれ、又、幾多の災害により諸尊、宝物等を焼失するなど栄枯盛衰を経て今日に至っている。
   山中には、坊の跡や経塚郡、古墓郡等、歴史的遺構が点在し、遺物も多数出土しており、往時の勢力を窺い知る事ができる。



なるほど、難払寺・・・難波羅寺!そして1400年の歴史が!最後は毛利家の庇護を受けたということで、家紋が使われていたのですね。

本堂では瓦勧請が出来るようで。実用的で私は好きです。


ウチの瓦も葺き替えたいので、ぜひ皆さんにご協力・・・いや、自宅の瓦に使われたらちょっと怖いでしょう。
何十年後かに家を解体中、瓦の裏に筆で書かれた名前が・・・


アイタタタ


(自費で葺き替えてください)