山口の神社仏閣★宇部護国神社 福原越後公像・拝殿等・金家来神社編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



週末の雨で、美しかった桜の花が散ってしまうのが寂しいRieruです

その桜の花が満開だった頃に、宇部市にある『宇部護国神社』に参りました。



こちらには主祭神である福原越後公の銅像があり、台座の左下の説明プレートにはこのように書かれていました。(割愛箇所有り)


福原越後公銅像

  福原越後公は、文化12(1815)年 徳山藩主 毛利広鎮の6男として生まれ、文政9(1826)年11歳時、萩藩佐世石見の養子となり、安政5(1858)年藩主 毛利敬親の命により永代家老福原家を相続し、長門国厚狭郷宇部の本知行地を始め複数の知行地を有し、総知行高1万1314余石の領主となった。越後公は藩主の股肱の臣の1人として藩主の身代わりとも女房役ともなって藩政府内の頂点に居ながら藩主に忠誠をつくし、藩運を賭ける激しい政治的駆け引きの場でも、世の注目を集める華やかな舞台でも常につつましく脇役に身を置いていた。
  元治元(1864)年『禁門の変』に於いて長州藩の敗北により、幕府が第一次長州征伐を発動した際、福原越後、益田右衛門介、国司信濃三家老は、藩主の命を受け出兵したにも拘わらず、幕府恭順の保守派(俗論党)に責任を負わされ、長州征伐回避、藩存続の為に、切腹させられ無念の死を遂げた。しかし、この屈辱に激怒した尊王倒幕派、高杉晋作が1ヶ月後、功山寺で挙兵し、やがて民衆を集めて組織した奇兵隊や諸隊も参戦し、藩政が倒幕へと動き始め、その2年後の第二次長州征伐に勝利し、明治維新の基が開かれたのである。この三家老の切腹が、回天維新の大きな契機となったのは確かである。
   福原越後公、元治元年11月12日 岩国龍護寺で切腹。享年50歳。

くるしさは絶ゆるわが身の夕煙
                  空に立つ名は捨てがてにする


  誇り高き血筋に生まれ永代家老としての越後公には、朝敵、不忠不義と言う汚名を着せられ切腹する事は無念この上ない事ではあったが、忠義に殉じたことは、せめてもの救いであっただろう。寡黙で温厚実直、決断鋭く采配は見事、君主に忠実な名家老として幕末の長州藩政を見事に運営し、主領地宇部村に於いては、村づくり人づくりに着手し、文武修練道場維新館を建設し文武両道の教育に力を注ぎ宇部村発展の為に尽力し、名臣として高く評価され人々に慕われた領主であった。
  また付記すれば、佐甲但馬が藩政府に、楠公祭には殉難者の英霊を従祀することを上申し、此れを受け藩政府は、慶応元(1865)年5月14日許可を下し、その2日後の16日に萩の椿神社神官青山上総(初代靖国神社宮司)が、越後公の御霊魂を琴崎神社(現 琴崎八幡宮)に仮合祀のため招魂祭、東京招魂社(現 靖国神社)での招魂祭へと戦死者の招魂祭が斎行されていった。その経緯を鑑みれば越後公の仮合祀は、現在の靖国神社の源流であると言えると近者『靖国神社の源流』に記されている。
  越後公の銅像は、昭和天皇御大典事業の一環として、昭和3(1928)年11月 福原越後公偉蹟顕彰会の呼びかけにより市民からの浄財を募り神原公園に建立されたが、昭和16(1941)年9月1日の金属類回収令の施行により昭和19(1944)年に供出され、その後、再建の話が持ち上がりながらも実現されず今日に至っている。憤死から146年経った平成22(2010)年11月23日、福原越後公も市民から忘れ去られた感が否めない中、一人の篤志家宇部市中尾在住の廣中米子様のご好意により、越後公の御霊魂の鎮まります維新山の此の処に、再び奉納建立されたのである。尚、銅像は東岐波在住の彫刻家 古谷博氏が製作され、台座は昭和15(1940)年に山本榮助氏が上宇部小学校に二宮金次郎像を寄贈された時のもので、像は永年の風雪により破損がひどく忍びない状態であったので、現在はガラスケースに収められ校長室に安置されている。
  この越後像の建立によって、越後公を含む長州三家老を新たに顕彰し、明治維新の意義を顧みて、これからの日本の在るべき姿を一人でも多くの人々に考えて頂けたらこの上ない喜びである。銅像関係者様に心から感謝・・・。
宇部護国神社
                            宮司  野村好史


なるほど!てか、思いのほか長かった…(←コラ!)


靖国神社の源流・・・謹んで参拝させていただきます。

味のある神額。


ガラスで保護されていました。

コロナ対策が施された椅子の置き方。


中央に置かれたストーブは、そろそろ片付け時でしょうか?あっ、ウチのも片付けなければ。

屋外で目にした絵馬。


事情があってネズミ・・・


本殿はこちら☆

拝殿の窓ガラスがレトロガラスキラキラ


歪んでいても、映る桜は美しいです。

あら、拝殿近くに神社がありますよ。


『金家来神社(かなやごじんじゃ)』というらしく、近くにあった説明板にはこのように書かれていました。

金家来神社  由来


 御勧請   平成29年11月14日 島根県安来市広瀬町西日田の金家子(かなやご)神社より「武士の命の刀の守り神」として御勧請(現在本殿に仮遷座中)

  御祭神   金家子神。伊邪那岐命・伊邪那美命の孫。金山彦命・金山姫命のたたら製鉄技術を伝授した神。鉄(金)の生みの親。鉄(金)の守り神。

  御神徳  破邪顕正(不正を破って正義をあきらかにする) 
悪縁断絶良縁開花(悪い縁を断ち切って、経営・商談・縁組等々、色々な物事を良い方向に発展・開花させる)  
貧乏縁断絶金運招福(貧乏縁を断ち切って金運や幸福を招く)


「金屋子神」の由来と「金家来神社」

   金屋子神の御本社、島根県安来市広瀬町西日田にあります「金屋子神社」に伝わる「金屋子祭文雲州比田ノ伝」に依れば、金屋子神は、村人が雨乞いをしていたところへ雷雨と共に播磨国岩鍋(兵庫県千草町岩野辺)に天降り、吾は金作りの金屋子神である、今よりあらゆる金器を造り、悪魔降伏、民安全、五穀豊穣のことを教えようと、かくして磐器をもって鍋を作り給もうた。故にこの地を岩鍋という。だが、此処には住み給うべき山がなかった。そこで、吾は西方を司る神なれば西方に赴かんとして、白鷺に乗って西国へ赴き、出雲の能義郡黒田屋比田の山林に着き給い、桂の木に羽を休めておられるところ、たまたま狩りに出ていた阿部正成重(金屋子神社宮司の祖先)が発見し、やがて神託により、長田浜部朝田長者なる者が宮居を建立し、神主に阿部正成を任じ、神は自ら村下(むらげ=技師長)となり給い、朝田長者の集めた炭と粉鉄(砂鉄)を吹き給えば、神通力の致すところ、鉄の湧くこと限りなしとある。神は、此の地で「たたら製鉄」を起こしたのである。たたら製鉄は、炉と木炭まて砂鉄で鉄を作り出す製法で、出来た鉄の塊を鉧(けら)といい、その中の上質の鉧を敬意を表して「玉鋼(たまはがね)」と呼び、これが日本刀の材料となる。依って武士道精神を有するご祭神をお祀りする当宇部護国神社に武士道精神を取り戻し、倫理道徳心の薄れた世の中を良くしようと「金屋子神」を御勧請するに至ったのです。金家来神社と命名したのは、神の啓示(お告げ)によるものです。
   尚、当社のご神体は、玉鋼ですが、現在の「日刀保たたら」の村下、文部科学大臣認定の玉鋼製造「たたら吹き」の選定保存技術保持者、人間国宝 木原明氏の玉鋼です。また、金屋子神は雷雨と共に高天原から降臨された故に、多くの関係神社には龍神の絵や彫刻が施されています。当神社も、神社降昌を祈り天井絵に龍神図を施しました。此の龍神図は鳥取県米子市在住の日本唯一の指絵画家、中国指絵画研究協会所属、天津美術学院客員教授 濱田珠鳳先生によるものです。
 


なるほど・・・島根県からご勧請された神様なのですね。てか、思いのほか長かった・・・(←またかい!)

こちらへも謹んで参拝を。


あら、こんなところにもコロナ対策?が。箱の上に手をかざすと、鈴の音が鳴るようです。便利ですね。

・・・『音姫』的な?


アイタタタ


(男性の認知度は低い)