山口の神社仏閣★まだ常栄寺の山門の手前なのに!編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。




先日、山口市を一人で歩いたRieruです★

未だ雪舟庭があるという『常栄寺(じょうえいじ)』を訪ねたことがない私…満を持して行って来ました!
寄り道しながら、山口駅からここまで、遠かったです…看板を見付けた時の嬉しさと言ったら!


やっと着いたー!…お?寺内正毅さんのお墓が近くにあるのですね。後ほどお参りさせていただきます。
さぁ、あの看板が過ぎた頃から、緩やかな坂道になってきました。


山側の方向に常栄寺はあるようです。


ほどほどに歩いて行きますと…常栄寺の山門が見えてきました。

(てか、危ないので車道に出ないでください)

山門と駐車場の手前に、いくつかの石碑が建っていました。


手前の古そうな石碑には、『史跡名勝常栄寺 保存修理工事記念碑』と刻まれていました。

その奥には『二蕉庵紫香(にしょうあんしこう)句碑』が。


近くにあった説明板には、このように書かれていました。

もみじして  落葉して 呵々  朽ば哉

この句碑は、晩年をこの近くの宮野桜畠で過ごした二蕉庵紫香(本名 鎌田三伯)の辞世を刻み、大正9(1920)年 門徒により建てられたものである。
紫香は幕臣として江戸に生まれた漢方医であったというが、その履歴は明らかでない。
山口に往来したのは日露戦争の頃で、近隣の青年男女に、漢籍や俳句を教えて多くの人々から敬愛された。
大正8(1919)年1月11日、近くの寓居で没した。行年80歳。

江戸出身で晩年は山口県に…そんな方がいらっしゃったのですね。


他に、『筆塚』もありました。


境内には、雪舟さんの筆箱もあります。


いかにも古そうな石が…

梶原転石先生の句碑もありました。


石庭の  最も月に  濡れ易し

あああああ…雪舟さんが作庭したと言われるお庭を早く拝見したいです!が…ちょうど私の前にご夫婦が。
程よい距離を保ちながら鑑賞しなくてはなりません。…と思っていたら、後方にもご夫婦が。
程よい距離、程よい距離。


瑠璃光寺五重塔の近くにもある、雪舟さんの胸像がありました。

広く知られた方ですが、説明プレートにはこのような説明がありましたので、書かせていたきます。


画聖 雪舟 (1420〜1506)

応永27(1420)年 備中赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれ、幼くして井山宝福寺へ入婿になったといわれています。
京都の相国寺で水墨画を画僧周文から学んだのち、当時有力な守護大名であった大内氏の招きで山口の雲谷庵に居を移します。
その後、中国(明)で2年間を過ごし、水墨画の真髄を探求しました。
帰国後は豊後(大分県)に一時画楼をかまえましたが、再び山口に戻り、雲谷庵を拠点として石見(島根県)などへ活動の場を広げて多数の作品を創作しました。
また、画ばかりではなく、庭園も手掛けたといわれ、ここ常栄寺の庭園も雪舟作とされています。

パトロンである大内氏と関わりが無くても素晴らしい水墨画を描かれたとは思いますが、やはり2年間も明で水墨画を学んだ事は、その後の作品に対して大いに影響があったに違いありません。
常栄寺所属の県指定文化財『絹本墨画淡彩雪舟等楊像』(雪舟が71歳の時に描いたとされる自画像を雲谷等益が模写したもの)からは、生前の雪舟さんの雰囲気を読み取ることが出来ます。

△ 『山口の文化財』からお借りしました

チョロリとお髭を生やされていたのですね。そして個性的なお帽子…お庭だけでは無く、ファッションデザイナー(帽子専門)だったのですか?

雪舟さん:「これは明の僧たちが被っていた『烏沙帽(うさぼう)』というものでの。わしも被っておった。明に渡って学んだ景徳寺じゃあ、高位である『第一座』を授けられたんじゃあ。被ってもよかろう。まぁ、言わばこの烏沙帽は、わしのプライドの象徴的なものかの。


日本の僧で烏沙帽を被れるのはほとんどおらんかったと思うし。(ドヤ顔)」

ん〜、漫画家さんが被ってるベレー帽みたいな感じ?

雪舟さん:「…話聞いてた?(ウルウル)」


アイタタタ


(すみません、すみません、すみません!)