『ぶるとっぴん』・・・山口弁で『急いで』という意味ですが、普段は使わないRieruです★
しかし、今月最初に訪ねた山口市で、まさにぶるとっぴんな状況になりました。
湯田温泉駅→松田屋ホテルの瓦屋跡→木戸神社→枕流亭→瑠璃光寺五重塔→俊龍寺のあと、旭通りにある『酒菜 いちやなぎ』さんに、“ジャスト11時に到着”予定だったのに、俊龍寺近くにこんな看板を見つけてしまったのです。
『雪舟ゆかりの史跡 雲谷庵跡 約400m』
は?雪舟ゆかりの史跡?しかも通り道・・・ここから約400m!
・・・・・・・・・
・・・走ったら、お店には11時に着くんじゃない?
イテテ
(若いな!←自分のことながら)
てか自分で招いた、ぶるとっぴん・・・あー!なんで見付けてしまったんだよう!ツイているのか、ツイていないのか頭の中ごちゃごちゃのまま、ラン&ウォークであっという間の400m!
桜の花が綺麗ですが、雲谷庵跡の敷地の木ではありませんので、あしからず。
路地に入ってすぐ左側に雲谷庵跡はあります。
AM 10:24
跡と言っても、再建されているんですね。敷石程度とかしか残っていないのかと思っていました。
建物を正面にして左側には、見晴らし台のような場所が。
『この台上より五重塔が見えます。』という立て看板に惹かれて、早速台の上に立ってみました。
右側の方を見ると、確かに五重塔が見えます。
小っさ!
見えるには見えましたが・・・毎日見てたら、悪くなった視力が回復しそうですね。
台の右側には雪舟の年表や、雪舟の足跡なる日本地図が。
今の時期、これだけ動いたら一気に危険人物扱いです。国外・・・ましてや県外への出張も控えましょう。
しかし、いろんな場所に行っているのですね。
そして振り返れば、先程の建物が。なぜ雲谷庵という名前なのでしょうか?
説明板には、このように記されていました。
ここは、室町時代の画聖 雪舟のアトリエ「雲谷庵」の跡です。
雪舟は1420年に備中の赤浜(現在の岡山県総社市)の生まれで、若くして僧籍に入り、後に京都に出て、禅を学ぶかたわら絵を学んだ。雪舟は40歳ころにはすでに第一流の画家として名声も高く、さらに大きい希望を持って絵を勉強するために当時中国、朝鮮から新しい文化が入ってきていた山口に住むようになりました。
その後、応仁元(1467)年に遣明船に乗って中国に渡り3年間中国に滞在しました。日本へ帰った後も山口に住みアトリエ「天開図画楼(てんかいとがろう)」を開いて画禅一致の生活をしました。
雪舟67歳の時 生涯最大の力作 国宝「四季山水図」も此処で書いたものです。
雪舟の没年や場所には所説ありますが、永正3(1506)年87歳の時 この雲谷庵で没したといわれています。
雪舟死後 庵は荒廃しましたが、大内氏の跡を継いだ毛利氏が雪舟画脈の廃絶を惜しみ雲谷宗家にこの地を与えましたが、明治になって廃絶しました。そこで郷土史家の近藤清石(きよし)等が中心になって有志と図り、明治17(1884)年に大内時代の古材を集めて一宇を再建しました。
へぇ〜、美術の資料集や教科書等に必ず載っている、あの四季山水図がこちらで。
そして古材を使って・・・
そういう視点で見ると、再建とはいえ興味深いものがありますね。
興味深・・・猫避けがスゴい。
開けると猫が入り込むので、玄関以外開かないようになっていました。
こんなところに猫が?
夏場の見学は締め切っていて建物内は相当暑いかもしれません。冬はその逆で、見学のベストはやはり春と秋ですね。
茅葺きの屋根に、古い箇所や新しい箇所がありますが、約2ヶ月前に改修されたのだとか。
しかも作業されたのが、雪舟の出身地岡山県の職人さんというから感慨深いです。
なんとも美しい
建物内の見学は自由で、スリッパは3足のみ。囲炉裏がある部屋は板間でした。
って!ゆっくり鑑賞していられない!建物の飛びをしっかりと閉め、ぶるとっぴんで旭通りに向かいます。
途中、天花地下地下道に四季山水図が!
今年が雪舟生誕600年に当たったばかりに、雲谷庵跡の茅葺き屋根の改修等や、この壁画が作成・展示される事になり、道中 誘惑がー!ああ、悩ましい!
そして地上に出たら出たで、一の坂川の桜並木が!桃色の誘惑がー!
・・・平日限定5食の海鮮丼が食べたきゃ、黙って走らんか!
アイタタタ
(ぶるとっぴんなのは誘惑に負けてしまったからで・・・自業自得です☆)