猫の日の前日(金)に有給を取らせていただき(てか消化しないと勿体ない)、周南市にある櫛ヶ浜駅から岩徳線の汽車に乗ったRieruです★
ご存知、岩国駅〜徳山駅間を『キハ40形』or『キハ47形』が走っていますが、約50分揺られました。
まだまだ勉強不足ではありますが、以前乗った山口線の汽車も『キハ40形』でありました。
岩徳線のは1両で、(降りる時は?)前の扉しか開かないようになっています。
そして下車の時に運転手さんに切符を渡すスタイル。無人駅対策なのでしょうか。
慌てて降りることの無いよう、真ん中辺りの4人席に座ります。
△ この“出っ張り”が微妙に邪魔です・・・もちろん足を乗せたりはしません
現在は赤字路線としてJRから冷淡視されている、ということを聞きましたが、そもそものスタートは国鉄(現 JR)主導では無かったようです。
時は遡ること明治45(1912)年、岩国出身の政治家 永田新之允(しんのじょう)氏が、岩徳線と岩日線の敷設を思い立ったのだとか。
てか、何ですか、その岩日線って?日・・・日から始まる駅はありませんが?
調べてみると、島根県にある日原駅ということがわかりました。は〜。
書籍からそのまま引用しますと・・・日原を通って予定線の参院選と連絡させ、瀬戸内海沿岸と山陰地方を結び、また山陽線の乗客貨物の輸送量増大に伴う対処と距離短縮のための岩日線の支線として南河内から分岐し、玖(玖珂くが)西地方から徳山に至る岩徳線の必要性を永田氏は思い立ったわけです。
大正2(1913)年に岩日線の出願をした時、岩日線の錦橋付近から分岐して玖珂に出て徳山に至る計画が定められたのは、民営ですることを念頭に置き、欽明路に長いトンネルを開けることは費用の面で避けたかったためだったのだとか。
△ 遠くて見づらいと思いますが、運転席(室)の扉上には、まるでバスのような電光運賃表が掲げられていました
明治の末には、岩徳線予想地を岩国〜徳山のルートと停車場の位置などを想定、構想めぐらし、岩日鉄道の嘱託技師 浅井為次郎と松岡工務所長 松岡芳太郎に依頼して、設計予測図と収支 概算書を大正3年に作成しました。
関係各地の有力者を玖珂の寺院に集めて発表、説明し協力を求めます。
しかし建設費180万円のうち、永田氏が100万円を出すので、残りの80万円を地元で集めるように依頼しましたが即答は得られず、結局第1次大戦が始まり、株式相場が大不況となって岩日鉄道の件が一時中止になってしまいました。
その支線の岩徳鉄道も休止になり、しまいには国鉄として敷設させる運動に・・・
そ、そうか・・・やはりお金がかかるものですよね。
その運動は、岩国の高森の三戸熊太氏が中心になり、永田氏の草案である『岩国徳山間山間直通線急説に関する請願』を鉄道大臣に提出するまでに。
は〜、鉄道大臣・・・鉄道省・・・帝国鉄道庁とか、いろいろあったんですね。
その後 県会議長であった宇野英助を団長とする代表団を上京させ、築地の精養軒で在京県人会を開き、永田氏の起草した『山陽線改良工事計画変更に関する意見書』に連署してもらい、新線敷設としての岩徳線ができなければ、柳井線複線化の意味で岩徳線を敷設するように求めた請願書を提出しました。
その他 いろいろ根回し(?)し、大正11(1922)年に開催された第46回帝国議会で、『鉄道敷設法別表九八・山口県岩国より玖珂を経て徳山に至る鉄道』が上呈され、可決→翌年には岩徳鉄道予算案が貴族院を通過!
この予算案成立の電報が高森町に届くと、花火が打ち上げられ、さらに宣伝ビラが乱舞し、旗行列が小学校から天満宮の間を練り歩き、大祝賀会が開かれるなどしたそうです。もちろん他の関係町村も。
大正13年の総選挙では永田氏も代議士になりましたが、鉄道敷設問題が政治問題として紛糾しました。しかし、最終的には工事費697万円余りが決定☆
昭和2(1927)年9月11日に、岩徳線第一工区起工式があり、昭和4(1929)年4月5日には麻里布岩国間の営業が開始されました。
昭和9(1934)年1月17日に欽明路トンネルが貫通して12月1日には全線開通に。
元々はこちらが山陽本線だった、というのは有名な話ですよね。
こちらも有名な話・・・県内には『周防』が付く駅名が5つありますが(周防久保駅・周防佐山駅・周防下郷駅・周防高森駅・周防花岡駅)、県外に周防を外した同名駅があることから付けられているそうなので興味深いです。
誰じゃい!こんなアホな落書きしたのは!
イテテ
(放置してるのも、ある意味スゴい)
1人で笑いを堪えていた中年女を乗せて、汽車は勝間駅→高水駅へ。この駅から米川駅の間に、狭い場所があり、そのまま中山トンネルへ入りましたが・・・恐ろしい音が恐怖感を募らせます。しかも思っていたよりも長い(1,410m)トンネルでした。
米川駅から周防高森駅に到着。
予定通り高森天満宮の梅をめでた(割愛)後、椎尾八幡宮方面へ。
今回の旅から、昨年の秋に購入していた県民手帳をバッグに忍ばせて。
・・・帰りの電車で30分ぐらい眠りこけましたけど!
アイタタタ
(いびきはかいていません!・・・多分)