先日、『シャトルラン』をする機会があり、記録は28!だったRieruです★
一応40〜44歳の平均は26.5・・・やった!
日頃運動してないのに平均値より上まわったよ〜♪
娘A:「うち、文化部じゃけど91(平均値52.8)よ☆」
イテテ
(何かがオカシイ、何かが・・・)
半分本気で持久力を上げようか考えている女は、『古地図を片手にまちを歩こう』徳山コースを歩いた時に『徳山藩の過ぎたるもの3つ』のうちの“桜馬場”がお気に入りです。
現在の県道52号線(の一部?)辺りにあったらしいのですが、徳山藩が置かれてからずっと、それはそれは美しい桜並木が・・・と思っていたら、全部切られてしまった過去がありました。
“過ぎたるもの”の2つ目は徳山藩毛利家墓所ですが、中でもひときわ大きなお墓があります。
※このお墓は違いますm(_ _)m
しかも屋根付きのお墓なんですが、主は初代藩主毛利就隆サンです。
最初は下松に館邸を構え、下松藩としてスタートしたのですが、父兄に頼んで徳山(当時は野山)に移り変わり、徳山藩として再スタートしたのでした。
もし“ワガママ”を聞き入れてもらえなかったら、徳山藩は存在せず、下松藩として明治まで続いていた?かもしれません←オイ!
その就隆サンの側室に元賢(もとたか)サンが生まれ、跡を継いだのですが、じつは『兄』がおりました。
妾腹、ということで4年も幕府に届けず、名前も毛利ではなく、母方の永井姓を名乗らせたり、幼い頃は京都在住等と、かなり苦労された『元次(もとつぐ)』サンです。
7歳の時に徳山に引き取られましたが、狩りや川遊びの時に使う今宿屋敷に住まわされ、17歳で元服した頃にやっと家老の列に加えられて鐘楼町の四番屋敷をいただきましたが、北のはずれ・・・
元賢サンが亡くなられた後は、就隆サンの実の息子であるのにも関わらず、時期徳山藩主に“長府藩の次男”を推したりした者らを断絶追放処分したり、いろいろ改革した矢先、『万役山(まんにゃくやま)事件』が起こります。
徳山領と萩領の境界山の万役山(低い尾瀬山の辺り)で萩の百姓の父子3人が、1本の松を切って持ち帰っているトコを、徳山藩山廻り足軽が見つけて一悶着(萩の木じゃ、いいや徳山の木じゃ!等)の末・・・足軽により百姓の長男は傷を負い、父親は切り殺されてしましました。
Oh・・・
で、いろいろ(割愛)あって最終的に徳山藩はお取り潰しに!
その後、元次サンは出羽国新庄藩(現在の山形県新庄辺り)に幽閉、徳山の居宅や武家屋敷等は萩藩により壊し倒され、家臣等は萩藩へ移り・・・の間に“徳山藩再興”の為に尽力した『奈古屋里人(なごやさとんど)』サンらにより、3年後に石高は減ったものの、見事徳山藩復活☆
(詳しくは『武名埋り候とも/西岡まさ子』で!)
そういえば周南市役所の横の道を隔てた場所にある、山口銀行徳山支店があった場所には、『 奈古屋蔵人屋敷』と刻まれた碑があります。
蔵人サンは馬廻り。里人サンも馬廻り。
里人サンの兄である玄蕃(隆芳)サンは、弟(いらっしゃったとは知りませんでしたm(_ _)m里人サンの弟でもある?)久吉サンの息子 豊昌サンを養子に。
その豊昌サンの孫が蔵人サンになるので、里人サンとは親戚になるようです。
なるほど。
里人サン自身は徳山藩再興に尽力したにも関わらず、結局徳山のお家をたたみ、晩年は京都で過ごされ、亡くなられています。
元次サンも徳山に戻られる前に京都で亡くなられたんですよね。
話は変わり、山口銀行徳山支店のレンガのかべ、良いですね♪
徳山コースを歩いていると、魅力的なレンガ造りの建物を見つけました!
入り口は開いてるし、張り紙等も無いようなので、敷地内のドアを開けて中に入ると、オーナーさん♂らしき方がおひとりでお食事中〜。
オーナーさんらしき方:「すみません、今日結婚パーティの打ち合わせのお客様と貸切りで打ち合わせを・・・」
ハッ!
す、す、す、すみませんでした!
アイタタタ
(ということで、結婚披露宴パーティ等に利用される、オシャレなお店らしいです・・・←専用ではないので、いつかカフェしに訪ねたいです☆)