【08】古地図を片手に徳山(周南市)を歩こう!『後編』 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



『古地図を片手にまちを歩こう』では、古地図が印刷されたリーフレットがいただけますが、その表紙のデザインが気になるRieruです★

ガイドさんに尋ねるタイミングが無く、分からずじまいのものもありますが、今回参加した『徳山(周南市)』コースでは・・・

え?跳んでるウサギさん?&そしてお約束の月?なんでなんで?


月に変わってお仕置きよ!

って、セーラームーンならウサギさんじゃなくてネコさんのシルエットの方が、しっくりくるでしょ・・・


イテテ


ガイドさん♀に尋ねたら、何かの何かに描かれているそうです←メモしてないので暗記出来ず・・・
ご縁があったら、またこのウサギさんとは巡り逢うことがあるかも?
そんな“徳山”を知り尽くした美しいガイドさんは、この地下1階地上9階のマンションを『“憧れの”モウリマンション』と呼んでいました。


昭和51(1976)年に建てられた当時は中学生くらいだった?ガイドさんの目には、それはそれは素敵なマンションに映ったようです。


そうだったんですね。
住所が“毛利町”というトコもツボですよね!

そんな憧れのモウリマンションの敷地の端に、『益田親施幽閉賜剣の地』の碑があります。


例の切腹した三家老のうちのおひとりが、益田親施(ちかのぶ)サンです。
毛利親敬サンから“”の字をいただいてます☆
例の禁門の変の後は阿武郡須佐に帰っていましたが、結局責任を問われ徳山に連れて来られて切腹・・・
3人目の福原元タケ(越後)サンは岩国で切腹されています。
じつは元々、越後サンは徳山藩毛利家の六男でしたので、隠居中の父や徳山藩主になった元蕃(もとみつ)さんは弟(七男ですが兄らが亡くなり越後サンは養子に出たため)・・・ちょっと徳山で切腹は酷だったからでしょうか。
ちなみに長州藩11代藩主 毛利斉元サンの“”をいただいています。


それから『北の関門礎石』を見に行きましたが、分かりにくい場所に置かれていました。


この礎石は対になっていて、片方は個人の敷地内にあるそうです。
この四角い穴のトコに柱が立てられて、門になるようにしつらえていたのだとか。

てくてく歩いて、ついに徳山藩藩邸跡へ。


現在は周南市文化会館などが建っています。

敷地内には、どでかい石が!


いつ見てもため息のでる石ですが、大阪城築城の際、城壁の石垣に使った残石を、わざわざここに設置したそうです。


石切場は徳山湾に浮かぶ大津島などの島で、切り出したのち船で大阪まで運んだんですね〜。

ここからは徳山駅に帰るコースになります。
周南市美術博物館を右手に、『作事方跡』発見☆道を隔てた反対側には『武方方跡』があります。


ここで武器やらなんやら作られていたようです←テキトーに書いてすみませんm(_ _)m

徳山のまちを歩いていると、こんな町名を目にします。


『花畠町』・・・以前は何とも思わなかった町名ですが、昨年 島根県の松江城城下町に同じ名前があったのを思い出し、ここが藩主の娘さんたちが住まわれていたところだというのが分かりました。

コース表に書かれていた『児玉源太郎生家跡』が最後になります。


きれいに整備され、駐車場まであります。

見どころは産湯の井戸でしょうか。


児玉家は女の子が続き、父 半九郎42歳(母も40歳くらいだった)の時に源太郎サンが生まれたので、児玉家の喜びようといったら・・・半九郎サンは元々養子なのですが、徳山藩初代藩主の毛利就隆サンの生母 二の丸殿(周姫、櫻尾ノ局とも)さまは、毛利家の家臣だった児玉家の出で、(毛利元就サンの孫の)毛利輝元サンがストーカーしたり、人妻だった周姫を拉致したり、挙句の果てに周姫の旦那を殺害させるという、まるでドロドロの昼ドラのような・・・

やだRieruさん、目が輝いている!


アイタタタ


(いや、本当に関係者には悲しい出来事でした・・・)