【16】古地図を片手に小郡(山口市)を歩こう! | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。




16   小郡
           古地図散歩〜明治維新と小郡
           江戸時代から山陽道と石州街道が交わる交通の要所であった小郡。幕末期には山口への玄関口として軍事上重要な場所となりました。旧街道を歩きながら明治維新関連地などを巡ります。

           期間    2018年1月〜12月の第1水曜(1月除く)、第3土曜(その他の日も対応可/2週間前までに要予約/5名以上で催行)

            料金    無料

            集合場所    小郡ふれあいセンター(JR山口線周防下郷駅前)

            開始時間    10時

            コース    小郡宰判勘場・御茶屋跡(高杉晋作ゆかりの地)、正福寺(秋本新蔵の墓)、秋本本家の屋敷跡(毛利敬親の駕籠を置いた石)、道標(みちしるべ)などを巡るコース〈約2.5km/約2時間〉

            問い合わせ・申し込み先     
            おごおり地域づくり協議会
             083-976-8588

・・・に参加したRieruです★

   ※画像が残ってた!

今回のガイドは女性ガイドさんがメインで、サブ的なスタンスのガイドは男性ガイドさんでした。
男性ガイドさんのリーフレットをチラッと見たら、ピンクのラインがいっぱい!


私も書き込んだりしたことがあるのですが、最近の“まち歩き”のリーフレットはキレイなまま・・・メモすら取っていないです。

小郡コースに申し込みをした際に参加者がすでにお2人いらっしゃると聞いていたので、もしやカップル(ご夫婦)?私、お邪魔虫?という懸念していたのですが、蓋を開けると男女お2人は全くの他人で、年齢もかなり異なっていまさた。取り越し苦労で良かったです・・・が、参加者の男性、柳沢慎吾ちゃんみたいにしゃべる、しゃべる!・・・ので、あの人のことは(心の中で)慎吾ちゃんと呼ぼう。


イテテ


(女性は私よりちょっとお若くて可愛いらしい感じの方←しかもメモしたり・・・と、勉強熱心☆)

ガイドさんたちを合わせて5人で小郡(おごおり)ふれあいセンターを出発します。
・・・の前になんかあります。


この辺りは慶長8(1603)年頃『御茶屋』が建てられたそうで、江戸幕府が始まった頃から賑やかだったようです。
その後慶安元(1648)年頃には『代官所』に・・・家光サンの時代には代官所に?
どうやら“セット”だったようです。
それから時代はかなり飛んで、大正6(1917)年7月に小郡町役場になりました。
で、現在は小郡ふれあいセンターになったんですね。
私お恥ずかしいことに、山口県に引越して来た頃は小郡が何処にあるのか知りませんでした。
新山口駅が昔『小郡駅』だというのを知ってから、あの当たりが小郡か〜となんとなく分かったような?
江戸時代の小郡は、右端の台道(現 防府市)から左端の岐波(現 宇部市)まで入っていたんですね。


この小郡を仕切っていた?『小郡宰判勘場(おごおりさいばんかんば)』の跡地が、ふれあいセンターの近くにあります。


宰判というのは行政区画のことで、勘場は役所です。
年に何回か萩藩から役人が来てたようで、ここの宰判の正面の門が正護寺に移築されて残っているのだとか。

ガイドさんが興味深いお話をされたのですが、男性ガイドさんが見せてくださった資料のイラストに釘付け!


・・・腹切ったら、痛いっちゃ!


イテテ


聞多サン・・・後の井上馨サンですね。
長州ファイブで有名な、世間ではナイショナイショのイギリス留学中、例の四国(外国のね)連合艦隊の報復攻撃を知った聞多さんと伊藤俊輔(博文)サンは長州に戻った来たわけですが・・・結局、禁(蛤御)門の変→長州征討令→下関戦争勃発で最悪のシナリオに“小郡で外国軍を食い止めちゃる!”という熱い思いで、小郡代官となりました。
んで、小郡勘場でとある会議中(割愛)、別室で怒りのあまり割腹しようとしたところを高杉晋作サンが止めたのだそうです。
で、聞多サンの意見を入れて晋作サンが俊輔サンを通訳として連れ、講和談判の使節として交渉に。

本当、ここで晋作サンが止めなかったら・・・なんて考えながら、小倉藩との『因縁』を聞くことに。
昔からいろいろあったんですね。
東行庵にある、四境戦争の際に小倉藩から奪った灯籠を思い出しました・・・
石、石!といえば、勘場だった頃の石垣が、現在建っているお宅の下に残されていました!


相当頑丈な石垣だったんでしょうね。
石質もかなり硬いもののようです。
教えていただかないと分からないぐらい小郡は、このような石垣がまだ他にも多く残されているのでした。

石、再び石!といえばリーフレットの小郡デザインのコレは、石柱だろ〜な〜と予想していたら、見事的中!


山陽道と石州街道の分岐点という、かなり貴重な場所です!
うわー!すごい!『道標(みちしるべ)』がそのまま残っているなんて!

・・・レプリカですけど?


イテテ


ホンモノは個人宅に・・・もちろん不法侵入になるので、ガイドさんなど許可を得た方と見学してくださいね汗

  ※向きが違いますがm(_ _)m

こちらホンモノの道標で、『左 萩 山口 石見』、『右 京 江戸』と刻まれています。
裏は『牛馬繋事無用』とあり、ここに牛や馬を繋ぐでナイ!と注意してる・・・昔は相当な数の牛馬がいたんでしょうね。
目を閉じれば蹄の音がするような?←ハイハイ。

その次は信光寺へ。


こちらには木戸孝允サンの扁額と、鋭武隊の表札があるそうです。
その扁額は台湾出兵に反対して参議兼文部卿を辞職→山口県に戻る→前原一誠サン等と話し合い等・・・の辺りの時のもの?


信・信・信・信・信・・・クドいくらい、信!


結局、一誠サンは『萩の乱』を起こし・・・んで、最終的には『西南戦争』・・・木戸サーン!


イテテ


そしてこちらは昔『薬』を扱う屋敷があったそうですが、道路拡幅の為、ぶった切られたんだそうです←語弊有り。


こんな感じで?本当に?

あの角度だとよく分からないですが、正面から見たらホラ!


確かにちょっと不自然な感じがしますね。


道標の話じゃないですけど、『駕籠石(かごいし)』が秋本本家の屋敷跡にありました。


萩市にもあった、駕籠を(そっと)置く石ですね。こちらは思い切り天理教の道場にあります。
私たちが見学させていただいている時、ちょうど土地の方とお話する機会があり、直接教えていただいたのですが、この石を庭を整理する際に動かそうとしたらビクともしなかったそうです。
地表に見えている部分はほんの一部で、地下部分には何十倍もの容積が?
ゾ〜。
ちなみにその方がおっしゃるには、『気軽に来てくださいね』ということでしたので、書かせていただきますm(_ _)m

と、ここまで書くのに、かなりいろんな箇所を割愛しました。
いつか機会があれば書くつもりです←逃げましたね?


最後に『藩米津出蔵跡(はんまいつくらだしあと)』へ。


津・・・は船着場のことですよね?

すぐ目の前に椹野川(ふしのがわ)がありました。

    ※道路の向こうは川

満潮の到達点になり、瀬戸内海へ向けて、また小郡に向かって荷を積んだ船が行き来したようです。
便利の良い場所ですが、しばしば水害に遭われたことがあるとか。
その時は秋本家が米蔵の米俵を出し、なんと土嚢がわりに積ませたのだとか!

ひょえー!
バチが当たる!と思ってしまいますが、命の方が大事、ということなんでしょうか?

さぁ、ふれあいセンターに向かって帰りましょう。
・・・なにらやよく話す慎吾ちゃん、なんだか静かに?体調でも良くないのでしょうか?
周防下郷駅(ふれあいセンター横)の手前で急に

「ちょうど電車が来るんで、ここで失礼します!ありがとうございました!」

と、慎吾ちゃんが言ったか言わないうちに、踏切の警報機の音が。

カンカンカンカン・・・

パトカーの音じゃなかったけど柳沢慎吾ちゃんの『ひとり警察24時』を思い出し、踏切の警報機をバックに『ひとり鉄道24時』・・・と心の中でガッツポーズを取る、米俵Rieru。


アイタタタ


(12時台の下り電車は2本・・・)